をうしろに見て、御堀端を右に切れると、娘はやはり俯向いて彼女について来た。松平佐渡守の屋敷前をゆき過ぎて、間《あい》の馬場まで来かかった時に、娘のすがたは暗い中にふっと消えてしまった。おどろいて左右を見まわしたが、どこにも見えない。呼んでみたが返事もない。文字春はぞっ[#「ぞっ」に傍点]として惣身が鳥肌になった。彼女はもう前へ進む勇気はないので、転《ころ》げるように元来た方面へ引っ返して、大通りの明るいところへ逃げて来た。
「おい、師匠。どうした」
 声をかけられてよく視ると、それは同町内に住んでいる大工の兼吉であった。
「あ、棟梁《とうりょう》」
「どうした。ひどく息を切って、何かいたずら者にでも出っ食わしたのかえ」
「え。そうじゃないけれど……」と、文字春は息をはずませながら云った。「おまえさん、町内へ帰るんでしょう」
「そうさ。友達のところへ行って、将棋をさしていて遅くなっちまったのさ。師匠は一体どっちの方角へ行くんだ。[#「。」はママ]」
「あたしも家へ帰るの。後生《ごしょう》だから一緒に行ってくださいな」
 兼吉はもう五十ばかりであるが、男でもあり、職人でもあり、こういう時の
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