ったことはありません。姉さんには逢いましたけれど……」
文字春はなんだか忌な心持になった。お雪の姉のお清は、今から十年前に急病で死んだのである。それにしても此の娘がどうしてそのお清を識っているのかを、彼女は更に詮議しなければならなかった。
「死んだお清さんはお前さんのお友達なの」
娘は黙っていた。
「おまえさんの名は」
娘はやはり俯向《うつむ》いてなんにも云わなかった。こんなことを云っているうちに、あたりはもう夜の景色になって、そこらの店先の涼み台では賑やかな笑い声もきこえた。それでも文字春はなんだかうしろが見られて、どうしてもこの怪しい娘に対する疑いが解けなかった。彼女は黙ってあるきながら横眼に覗くと、娘の島田はむごたらしいように崩れかかって、その後《おく》れ毛が蒼白い頬の上にふるえていた。文字春は絵にかいた幽霊を思い出して、いよいよ薄気味悪くなって来た。いくら賑やかな町なかでも、こんな女と連れ立ってあるくのは、どう考えてもいい心持ではなかった。
四谷の大通りを行き尽すと、どうしても暗い寂しい御堀端を通らなければならない。文字春は云い知れない不安に襲われながら、明るい両側の灯
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