は又すこし気が強くなった。灯ともし頃とはいいながら、賑やかな真夏のゆうがたで、両側には町屋《まちや》もある。かれはここまで来た時に、はじめて思い切ってその娘に声をかけたのである。声をかけられて、娘は低い声で遠慮勝ちに答えた。
「はい。赤坂の方へ……」
「赤坂はどこです」
「裏伝馬町というところへ……」
文字春はまたぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。本来ならば丁度いい道連れともいうべきであるが、この場合に彼女はとてもそんなことを考えてはいられなかった。彼女はどうして此の娘が自分のゆく先を知っているのであろうと怪しみ恐れた。彼女は左右を見かえりながら又訊いた。
「おまえさんは裏伝馬町のなんという家《うち》を訪ねて行くの」
「津の国屋という酒屋へ……」
「そうして、おまえさんは何処から来たの」
「八王子の方から」
「そう」
とは云ったが、文字春はいよいよおかしく思った。近いところと云っても、八王子から江戸の赤坂まで辿って来るのは、この時代では一つの旅である。しかも見たところでは、この娘はなんの旅支度もしていない。笠もなく、手荷物もなく、草鞋《わらじ》すらも穿《は》いていない。彼女は浴衣
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