誰が云い出したんだか知りませんけれど、まったく気になりますわ。津の国屋の前には女の幽霊が毎晩立っているなんて、飛んでもないことを云われると、嘘だと思っても気味が悪うござんす」
 文字春はお雪が可哀そうでならなかった。お雪はなんにも知らないに相違ない。知らなければこそ平気でそんなことを云っているのであろう。むしろ正直に何もかも打ち明けて、なんとか用心するように注意してやりたいとは思ったが、どうも思い切ってそれを云い出すほどの勇気がなかった。かれはいい加減の返事をして其の場を済ませてしまった。
 盆休みが過ぎてから、お雪は師匠のところへ来て又こんなことを云った。
「お師匠さん。家《うち》のお父っさんは隠居して坊主となると云い出したのを、阿母さんや番頭が止めたんで、まあ思い止まることになったんですよ」
「坊主に……」と、文字春もおどろいた。「旦那が坊主になるなんて、一体どうなすったんでしょうねえ」
 十二日の朝、菩提寺の住職が津の国屋へ来た。棚経《たなぎょう》を読んでしまってから、彼は近ごろ御親類中に御不幸でもござったかと訊いた。この矢先に突然そんなことを訊かれて、津の国屋の夫婦もぞっ[#「
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