突然云い出した。女房は勿論おどろいたが、番頭の金兵衛もびっくりして、主人にその仔細を聞き糺したが、次郎兵衛はくわしい説明をあたえなかった。しかしそれが十三日の午すぎに寺まいりに行って、住職となにか相談の結果であるらしいことは想像された。主人が突然の隠居に対して、金兵衛はあくまでも反対であった。女房のお藤もやはり不同意で、たとい隠居するにしても、娘に相当の婿をとって初孫《ういまご》の顔でも見た上でなければならないと主張した。その押し問答のあいだに、次郎兵衛は単に隠居するばかりでなく、隠居と同時に出家《しゅっけ》する決心であることが判ったので、女房も番頭も又おどろいた。二人は涙を流して一※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《いっとき》あまりも意見して、どうにかこうにか主人の決心をにぶらせた。
「お父っさんがああ云うのも無理はないけれど、今だしぬけにそんなことをされちゃあ、この津の国屋の店もどうなるか判らないからねえ」と、お藤はあくる朝、むすめのお雪にそっと話した。
 この話をきかされて、文字春は肚《はら》のなかでうなずいた。津の国屋の主人が隠居して頭を刈り丸めようとする仔細も大抵さとられた。おそらく菩提寺の住職に因果を説かれて、お安の死霊の恨みを解くために、俄かに発心《ほっしん》して出家を思い立ったのであろう。女房や番頭がそれに反対したのも無理はないが、見す見す死霊に付きまとわれて津の国屋の店をかたむけるよりも、お雪に然るべき婿を取って自分は隠居してしまった方が、むしろ安全ではあるまいかとも思われた。しかし、そんなことを滅多《めった》に口にすべきものではないので、彼女は黙ってお雪の話を聴いていた。

     五

 それから五、六日経つと、津の国屋の女中のお米《よね》がまたおどされた。それはやはりかのお松が怪しい女に出逢ったのと同じ刻限で、かれも町内の湯屋から帰る途中であった。その晩は雨がしとしと降っていたので、お米は番傘をかたむけて急いでくると、途中で足駄《あしだ》を踏みかえして鼻緒をふっつりと切ってしまった。何分にも薄暗い路ばたでどうすることも出来ないので、かれは鼻緒の切れた足駄をさげて片足は跣足《はだし》であるき出そうとすると、傘のかげから若い女の白い顔が浮き出して、低い声で云った。
「津の国屋は今に潰《つぶ》れるよ」
 お松の話を聴いているので、お米は急に怖くなった。かれは思わずきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と叫んで、持っていた足駄をほうり出して、片足の足駄も脱いでしまって、跣足で自分の店へ逃げて帰ったが、年のわかいかれは店へかけ込むと同時にばったり倒れて気を失った。水や薬の騒ぎでようように息を吹きかえしたが、お米はその夜なかから大熱を発して、取り留めもない讒言《うわごと》を口走るようになった。
「津の国屋は今に潰れるよ」
 かれは時々にこんなことも云った。主人夫婦は勿論、店の者共も気味を悪がって、病人のお米を宿へ下げてしまった。その駕籠の出るのをみて、近所の者はまたいろいろの噂を立てた。こんなことが長く続いていれば、店は次第にさびれるに決まっているので、番頭の金兵衛もひどく心配していたが、幸いにお藤の足の痛みはだんだんに薄らいで、もう此の頃では馬道へ通わないでも済むようになった。次郎兵衛は店の商売などはどうでもいいというようなふうで、毎日かならず朝と晩とには仏壇の前に座って念仏を唱えていた。
 それらの事はお雪の口からみな文字春の耳にはいるので、彼女はいよいよ暗い心持になって、津の国屋は遅かれ早かれどうしても潰れるのではあるまいかと危ぶまれた。
 八月になって、津の国屋にもしばらく変ったこともなかったが、十二日の宵に奥の間の仏壇から火が出て、代々の位牌も過去帳も残らず焼けてしまった。宵の口のことであるから、大勢がすぐに消し止めて幸いに大事にはならなかったが、場所もあろうに仏壇から火が出たということが家内の人々を又おびやかした。
「お燈明の火が風にあおられたのです」と、番頭の金兵衛は云った。
 この矢先に又こんなことが世間に聞えてはよくないと、金兵衛は努めてそれを秘《かく》して置こうとしたが、誰がしゃべるのか近所ではすぐに知ってしまった。女中のお松ももう居たたまれなくなったと見えて、その月の末に親が病気だというのを口実にして、無理に暇を取って行った。先月にはお米が宿へ下がって、今月はお松が立ち去り、出代り時でもないのに女中がみな居なくなってしまったので、津の国屋では台所働きをする者に差し支えた。近所の桂庵《けいあん》でも忌な噂を知っているので、容易に代りの奉公人をよこさなかった。
「この頃は阿母《おっか》さんとあたしが台所で働くんですよ」と、お雪は文字春に話した。「それでも阿母さんはまだほんとうに足が良くないんですか
前へ 次へ
全18ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング