しろにはお安の亡霊が影のように付きまとっているのではないかと恐れられてならなかった。そのうちにこんな噂が又もや町内の女湯から伝わった。
 津の国屋の女中でお松という、ことし二十歳《はたち》の女が、夜の四ツ(十時)少し前に湯屋から帰ってくると、薄暗い横町から若い女がまぼろしのように現われて、すれ違いながらお松に声をかけた。
「早く暇をお取んなさいよ。津の国屋は潰れるから」
 びっくりして見返ると、その女の姿はもう見えなかった。お松は急に怖くなって息を切って逃げて帰った。主人にむかって真逆《まさか》にそんなことを打ち明けるわけにも行かないので、彼女は朋輩のお米《よね》にそっと話すと、お米は又それを店の者どもに洩らした。店の者ばかりでなく、女湯へ行ってもお米はそれを近所の人達に話した。それがまた町内の噂の種になった。
 いつの代にも、すべてのことが尾鰭《おひれ》を添えて云い触らされるのが世間の習いである。まして迷信の強いこの時代の人たちは、こうした忌な噂がたびたび続くのを決して聞き流している者はなかった。噂はそれからそれへと伝えられて、津の国屋には死霊の祟りがあるということが、単に湯屋|髪結床《かみゆいどこ》の噂話ばかりでなく、堅気《かたぎ》の商人《あきんど》の店先でもまじめにささやかれるようになって来た。
 あしたが草市《くさいち》という日に、お雪はいつものように文字春のところへ稽古に来た。丁度ほかに相弟子のないのを見て、彼女は師匠に小声で話した。
「お師匠《しょ》さん。おまえさんもお聞きでしょう。あたしの家には死霊の祟りがあるとかいう噂を……」
 文字春はなんと返事をしていいか、少しゆき詰まったが、どうも正直なことを云いにくいので、彼女はわざと空とぼけていた。
「へえ。そんなことを誰か云うものがあるんですか。まあ、けしからない。どういうわけでしょうかねえ」
「方々でそんなことを云うもんですから、お父っさんや阿母《おっか》さんももう知っているんです。阿母さんは忌な顔をして、あたしのこの足ももう癒らないかも知れないと云っているんですよ」
「なぜでしょうね」と、文字春は胸をどきつかせながら訊いた。
「なぜだか知りませんけれど」と、お雪も顔を曇らせていた。「お父っさんや阿母さんも其の噂をひどく気に病んで、丁度お盆前にそんな噂をされると何だか心持がよくないと云っているんですの。誰が云い出したんだか知りませんけれど、まったく気になりますわ。津の国屋の前には女の幽霊が毎晩立っているなんて、飛んでもないことを云われると、嘘だと思っても気味が悪うござんす」
 文字春はお雪が可哀そうでならなかった。お雪はなんにも知らないに相違ない。知らなければこそ平気でそんなことを云っているのであろう。むしろ正直に何もかも打ち明けて、なんとか用心するように注意してやりたいとは思ったが、どうも思い切ってそれを云い出すほどの勇気がなかった。かれはいい加減の返事をして其の場を済ませてしまった。
 盆休みが過ぎてから、お雪は師匠のところへ来て又こんなことを云った。
「お師匠さん。家《うち》のお父っさんは隠居して坊主となると云い出したのを、阿母さんや番頭が止めたんで、まあ思い止まることになったんですよ」
「坊主に……」と、文字春もおどろいた。「旦那が坊主になるなんて、一体どうなすったんでしょうねえ」
 十二日の朝、菩提寺の住職が津の国屋へ来た。棚経《たなぎょう》を読んでしまってから、彼は近ごろ御親類中に御不幸でもござったかと訊いた。この矢先に突然そんなことを訊かれて、津の国屋の夫婦もぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。併しなんにも心当りはないと答えると、住職は首をかしげて黙っていた。その素振りがなんとなく仔細ありそうにも見えたので、夫婦はだんだん問いつめると、この頃三夜ほど続いて、津の国屋の墓のまえに若い女の姿が煙《けむ》のように立っているのを、住職はたしかに見とどけたというのであった。着物の色模様ははっきりとは判らなかったが、白地に撫子を染め出してあったように見えたと、住職はさらに説明した。
 それでもやはり心あたりはないと云い切って、夫婦は相当の御経料を贈って、住職を帰してやったが、その夕方からお藤の足はまた強く痛み出した。次郎兵衛も気分が悪いと云って宵から寝てしまった。夜なかに夫婦が交る交るに唸り出したので、家《うち》じゅうの者がおどろいて起きた。お藤の痛みは翌日幸いに薄らいだが、次郎兵衛はやはり気分が悪いと云って、飯も碌々に食わないで半日は寝たり起きたりしていたが、午すぎから寺まいりに出て行った。しかしその晩、迎い火を焚く時に、主人だけは門口《かどぐち》へ顔を出さなかった。
 十五の送り火を焚いてしまってから、次郎兵衛は女房と番頭とを奥の間へ呼んで、自分はもう隠居すると
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