ち》へ帰ってもしようがねえ。ともかくも品川へ行って見よう」
こう思い直して、かれは更に爪先を南に向けると、この頃の空の癖で、時雨《しぐれ》を運び出しそうな薄暗い雲が彼の頭の上にひろがって来た。
二
半七は品川の丸屋へ行って、主人にも逢った。お八重にも逢った。主人はどんな飛ばっちりを食うのかとおびえているらしかったが、取り分けてお八重は真っ蒼《さお》になっていた。なにぶんにも鳥のことであるから、別に詮議のしようもなかったが、それでも一応はお八重の座敷へ通って、鷹の飛んで行った方角などを聞き定めて帰った。
丸屋の暖簾《のれん》をくぐり出て、半七はまた考えた。鳥の飛んで行ったのは目黒の方角らしい。現に金之助らも目黒へ鷹馴らしに出かけたのである。して見ると、鷹はそこらに降りたかも知れない。なにしろ念のために一応その方角を調べてみようと思い立って、彼は更に目黒の方に足を向けると、空の色はいよいよ悪くなって来た。
「降られるかな」
半七は空をみながら急いで行った。これがほかの事件ならば、それぞれに筋道を立てて、捜索の歩をすすめるのであるが、事件が事件であるだけに、半七もいわゆる行きどころばったりに探しあるくよりほかはなかった。まことに知恵のない話だとは思ったが、半七は差し当りここらの村々の名主《なぬし》をたずねて、誰か鷹を見付けたか、あるいは鷹を捕えたかを聞き合わせようとした。
庶人が鷹を飼うことは遠い昔から禁じられている。鎌倉時代、足利時代、降《くだ》って徳川時代に至っては、その禁令がいよいよ厳重になって、ひそかに鷹を飼うものは死罪、それを訴人したものには銀五十枚を賜わるということになっていた。したがってそこらの村々で鷹を見つけ、又は鷹を捕えたものは、その村名主に届け出るにきまっている。足に緒をつけている鳥であるから、あるいは遠く飛ばないでここらの村の者に捕われまいとも限らない。こう思って、半七はまず名主の宅をたずねようとしたのである。
堤を降りた川の縁《ふち》で、二人の女が真っ白な大根を洗っていた。それを見つけて、半七は声をかけた。
「もし、名主様の家《うち》はどこですね」
ふり向いたのはいずれも若い女であった。一人は頭の手拭をはずしながら答えた。
「名主様の家はこの堤をまっすぐに行って、それから右へ曲がって、大きい竹藪のある家ですよ」
「ありがとう。それから……姐《ねえ》さん達は、けさここらへ鷹の降りたという噂を聞かなかったかね」
二人の女は黙っていた。
「知らないかえ」
「知りませんね」と、初めの女が答えた。
「いや、ありがとう」
挨拶して半七は別れた。教えられたままに名主の家をたずねて、鷹のことを聞き合わせると、村じゅうで誰も見つけたものはないらしく、現に今までも届けて来たものは無いとのことであった。鷹は前にもいう通り、普通の家で飼うべきものでない。その鷹の詮議とあれば容易ならぬことと察したらしく、名主も眉をよせて訊いた。
「そのお鷹はやはり御鷹所のでございますか」
「千駄木のですよ」と、半七は正直に答えた。「しかし、これは内密に探索しなければならないのですから、おまえさんの方でもそのつもりで……。なにか心当りがありましたら、わたしのところまでこっそり知らせてください」
「承知しました」
名主によく頼んで置いて、半七はそこを出ると、空の色はいよいよ怪しくなって来た。引っ返して名主のところで傘を借りて来ようかと思ったが、それも面倒だとその儘《まま》すたすた歩き出すと、川の縁でさっきの二人の女にまた逢った。
「や、さっきはありがとう」
女たちは無言で会釈《えしゃく》して別れた。村はずれまで来かかると、時雨《しぐれ》がとうとうざっと降って来たので、半七は手拭をかぶりながら早足に急いでくると、路ばたに小さい蕎麦《そば》屋を見つけたので、彼は当座の雨やどりのつもりで、ともかくも暖簾《のれん》をくぐると、四十ばかりの女房が雑巾《ぞうきん》のような手拭で濡れ手を拭きながら出て来た。
「いらっしゃいまし。おあつらえは……」
「そうさなあ」
云いながら半七は家のなかを見まわした。この小ぎたない店付きではどうで碌なものは出来まいと思ったので、彼は当り障りのないように花巻の蕎麦を註文すると、奥から五十ばかりの亭主が出て来て、なにか世辞を云いながら釜前へまわって行った。すすけた壁をうしろにして、半七は黙って煙草をのんでいると、外の時雨はひとしきり強くなって来たらしく、往来のさびしい街道にも二、三人の駈けてゆく足音がきこえた。と思ううちに、一人の男がこの雨に追われたように駈け込んで来た。
「やあ、降る、降る。こんな雨になろうとは思わなかった」
男の菅笠からはしずくが流れていた。かれは手甲脚絆の身軽な扮装《いでたち》
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