ん、あの蕎麦屋の娘を知っていなさるのかえ」と、半七はあるきながら訊いた。
「はあ、時々あすこの家《うち》へ寄りますので、夫婦や娘とも心安くして居ります。娘はお杉といって、この間まで奉公に出ていたのでございますよ」
「もう二十歳《はたち》ぐらいでしょうね」
「左様だそうです。当人はもう少し奉公していたいと云うのを無理に暇を取らせて、この春から家へ連れて来たのですが、やはり長し短しで良い婿がないそうで、いまだに一人でいるようでございます」
「どこに奉公していたんです」
「雑司ヶ谷の吉見仙三郎という御鷹匠の家にいたのだそうです。そんな訳で、わたしとは特別に心安くしているのですが……」
「その吉見というのは幾つぐらいの人ですね」
「二十三四にもなりましょうか」
「独り身ですかえ」
「組が違うのでよく知りませんが、もう御新造《ごしんぞ》がある筈です。そうです、そうです。御新造様があると、あのお杉が話したことがありました。吉見さんには時々逢うこともありますが、色のあさ黒い、人柄のいい、なかなか如才《じょさい》ない人です。そのかわり随分道楽もするそうですが……」
「そうですか」と、半七は一々うなずきながら聴いていた。「あの娘は何年ぐらい吉見さんに奉公していたんですえ」
「なんでも十七の年から奉公していたとかいうことです」
「雑司ヶ谷の組の人たちも目黒のほうへお鷹馴らしに出て来ますかえ」
「ときどきに出て来ます」と、老人は答えた。
半七はしばらく立ち停まって思案していたが、やがて左右を見かえってささやいた。
「おまえさん。御苦労だが、もう一度あの蕎麦屋へ引っ返してくれませんか」
「はあ」と、老人は不審そうに半七の顔を見た。「なにか、忘れ物でも……」
「さあ、どうも大きな忘れ物をして来たらしい」と、半七はほほえんだ。「おまえさんの鳥籠にはまだ三匹しかはいっていませんね」
「けさは遅く出て来たものですから、まだ一向に捕れません」
「むむ、三匹でもいいが、そうですね、もう二、三匹捕れませんかえ」
「今はここらにたくさん寄る時分ですから、二羽や三羽はすぐに捕れます」
「じゃあ、済みませんが、そこらへ行って二、三匹さして来てくれませんか。なるべく多い方がいい」
老人はその意味を解《げ》し兼ねたらしいが、云われるままに承知して、竹竿のぬれた黐《もち》を練り直していると、しぐれ雲はもう通り過
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