ょう》の徳蔵という魚屋《さかなや》で、ふだんから至極|実体《じってい》な人間でございます。ところが、宿へ帰りましてから徳次郎の模様がいよいよ悪くなりまして、とうとうきのうの八ツ頃(午後二時)に息を引き取ったそうで、まことに可哀そうなことを致しました。それもまあ寿命《じゅみょう》なら致し方ないのでございますが、当人がいよいよ息を引き取ります時、廻らない舌で何か申しましたそうで……」云いかけて、利兵衛はまた躊躇した。
「どんなことを云ったんです」と、半七は追いかけて訊《き》いた。
「それがお前さん。徳次郎が死にぎわに、わたしは店のお此《この》さんに殺されたのだと申したそうで……」と、利兵衛は小声で答えた。
 お此というのは、山城屋のひとり娘で、町内でも評判の容貌《きりょう》好しであるが、どういうわけか縁遠くて、二十六七になるまで白歯《しらは》の生娘《きむすめ》であった。それがために兎角よくない噂が生み出されて、お此は弁天娘というあだ名で呼ばれていた。しかもそれが普通に用いられる善い意味ではないので、山城屋の親たちもよほどそれを苦に病んでいるらしかった。それらの事情は半七もかねて知っていたが、そのお此がどうして小僧を殺したか、彼もさすがに早速の判断を下すことが出来なかった。その思案の眼色をうかがいながら、利兵衛はつづけて語り出した。
「徳次郎が病気になりましたのは、ちょうどお雛様の宵節句の晩からでございまして、ほかの奉公人の話によりますと、夕方から何だか口中が痛むとか申して、夜食も碌々にたべなかったそうでございます。それが夜あけ頃からいよいよ激しく痛み出して、あしたの朝には口中が腫れふさがってしまいました。口をきくことは勿論、湯も粥《かゆ》も薬もなんにも通らなくなりまして、しまいには顔一面が化け物のように赤く腫れあがってしまいました。したがって、熱が出る、唸《うな》る、苦しむというわけで、医者も手の着けようがないような始末になりましたので、主人は勿論、手前共もいろいろと心配いたしまして、とうとう宿の方へ下げることに致しましたのでございます。こんな病気になるについては、なにか自分で心あたりがないかと、病中にもたびたび聞きましたが、ただ唸っているばかりで、なんにも申しませんでした。それが宿へ帰ってから、どうしてそんなことを申したのか、少し不思議にも思われますが、なにしろお此さんが殺したなぞとは実に飛んでもないことで……。けさほど宿許《やどもと》から徳蔵がまいりまして、仏の遣言というのを楯《たて》に取って、どうも面倒なことを申します」
「その徳蔵というのは親父ですかえ」
「いえ、徳次郎の兄でございます。親父もおふくろもとうに歿しまして、只今では兄の徳蔵……たしか二十五だと聞いております。それが家の方をやっているのでございます。ふだんは正直でおとなしい男ですが、きょうは人間がまるで変ったようでございまして、いくら主人の娘でも無暗《むやみ》に奉公人を殺して済むかというような、ひどい権幕《けんまく》の掛け合いに、主人方でも持て余して居ります。唯今も申し上げる通り、手前の方に居ります時には、ちっとも口の利《き》けなかった病人が、家へ帰ってからどうしてそんなことを云いましたか、どうもそこが胡乱《うろん》なのでございますが、徳蔵は確かにそう云ったと申します。いわば水かけ論で、こちちではあくまでも知らないと突き放してしまえば、まあそれまでのようなものでございますが、なにぶんにも世間の外聞もございますので、手前共が気を痛めて居ります」
「お察し申します」と、半七はうなずいた。「そりゃあお困りでしょう」
「勿論、手前方でも相当のとむらい料を遣《つか》わすつもりで居りますが、どうもその、相手方の申し条が法外でございまして、どうしても三百両よこせ、さもなければ、お此さんを下手人《げしゅにん》に訴えると申すのでございます。それもお此さんが確かに殺したものならば、百両が千両でも素直に出しますが、今申す通りの水かけ論で、こちらから疑えば……まあ強請《ゆすり》とも、云いがかりとも、思われないこともございません。主人に代って、手前が対談いたしまして、まず十五両か二十両で句切ろうと存じたのでございますが、相手がどうしても承知いたしません。とどの詰りが当座のとむらい料と申し、三両だけ受け取りまして、いずれ葬式《とむらい》のすみ次第あらためて掛け合いにくると云って帰りましたが、親分さん、これはどうしたものでございましょう」
 山城屋も相当の身代《しんだい》ではあるが、三百両といえば大金である。まして因縁をつけられて、なんの仔細もなしに其の大金を絞り取られるのは迷惑であろう。利兵衛がどうしたものであろうと相談をかけるのも、所詮は半七の力をかりて、なんとか相手をおさえ付けて貰いた
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