徳蔵の額《ひたい》と胸とを突いて逃てしまったんだそうです。嬶が泣き声をあげて近所の者を呼んだんですが、もう間にあわねえ。相手は逃げる、徳蔵は死ぬという始末で大騒ぎだから、ともかくも親分の耳に入れて置こうと思ってね」
「そうか。もう検視は済んだろうな。そこで、下手人の当りはあるのか」
「どうも判らねえようです」と、善八は云った。「なにしろ嬶はとりみだして、気ちがいのように泣いているばかりだから、何がなんだかちっとも判らねえようですよ」
「泣くのは上手だろうよ。女郎上がりだからな」と、半七はあざ笑った。「ところで善ぱ。おめえはこれから鳥越《とりごえ》へ行って、煙草屋の伝介はどうしているか、見て来てくれ」
「あいつを何か調べるんですかえ」
「ただその様子を何げなしに見て来りゃあいいんだ。まご付いて気取《けど》られるなよ」
「ようがす。すぐに行って来ます」
「しっかり頼むぜ」
 善八を出してやって、半七はすぐに本所へ行った。きのうは弟の葬式《とむらい》を出して、きょうはまた兄貴の死骸が横たわっているのであるから、近所の人たちは呆《あき》れた顔をして騒いでいた。表にも大勢の人が立って店をのぞいていた。その混雑をかき分けて店へはいると、女房のお留は町内の自身番へ呼び出されたままで、まだ帰されて来なかった。きのうの葬式で近所の人とも顔なじみになっているので、半七はそこらにいる人達から徳蔵の死について何か手がかりを聞き出そうとしたが、どの人もただ呆気《あっけ》にとられているばかりで、何がなにやらよく判らなかった。
 一番先にこの騒動を聞きつけたのは、隣りの小さい足袋屋の亭主であった。魚屋の家でなにかどたばた[#「どたばた」に傍点]するのを不思議に思って、寝衣《ねまき》のままで表へ飛び出して、となりの店の戸をひらくと、内では「泥坊、泥坊」という女房の叫び声がきこえたので、亭主はおどろいて、これも表で「泥坊、どろぼう」と呶鳴った。この騒ぎで近所の者もおいおい駈け付けたが、賊は徳蔵を殺して裏口から逃げてしまったのである。徳蔵は他人《ひと》から恨みをうけるような男でないから、これはおそらく香奠めあての物取りで、徳蔵が手向いをした為にこんな大事になったのであろうと、足袋屋の亭主は云った。ほかの人たちの意見も大抵それに一致していた。
 半七は店口に腰をかけてしばらく待っていたが、お留はなかなか帰って来なかった。この間に半七は油断なくそこらを見まわすと、きのうもきょうも商売を休んでいるので、店の流しは乾いていた。盤台も片隅に積んであった。その盤台のかげの方に大きい蠑螺《さざえ》や赤貝の殻《から》が幾つもころがっているのが、彼の眼についた。なかなか大きい貝だと思いながら、彼は立ち寄ってその一つ二つを手に把ってみると、貝はいずれも殻ばかりで、その中の最も大きい蠑螺はうつ伏せになっていた。その蠑螺の尻をつかんで引っ立てようとすると、それはひどく重かった。横にころがして貝のなかを覗くと、奥にはなにか紙のようなものが押し込んであるらしいので、すぐに抽《ひ》き出してあらためると、それはたしかに百両包みであった。つつみ紙には血のついた指のあとが残っていた。
 あたりの人たちに覚《さと》られないように、半七はその百両包みをふところに忍ばせた。まだほかに何か新しい発見はないかと見まわしているところへ、表から彼《か》の伝介がふらりとはいって来た。商売にまわる途中と見えて、きょうは煙草の荷を背負っていた。かれは半七の顔を見て、さらに内の様子を見て、すこし躊躇しているらしかった。
「お早うございます。きのうは御苦労さまでございます」と、彼は半七に挨拶した。「きょうもなんだか取り込んでいるようですね」
「むむ。大取り込みだ。徳蔵はゆうべ殺された」
「へええ」と、伝介は口をあいたままで突っ立っていた。
「ところで、おめえに少し訊きてえことがある。ちょいと裏へまわってくれ」
 おとなしく付いて来る伝介を導いて、半七は横手の露地から裏手の井戸端へまわった。

「もうここまでお話をすれば、大抵お判りでしょう」と、半七老人は云った。「伝介はお留が吉原にいた頃からの馴染《なじみ》で、年《ねん》があけても自分の方へ引き取るほどの力もないので、相談ずくで徳蔵の家《うち》へ転げ込ませて、自分もそこへ出這入りしていたんですが、よほど上手に逢い曳きをやっていたとみえて、亭主は勿論、近所の者も気がつかなかったんです。ところで、不思議なことには、そのお留という女は勤めあがりで、おまけにそんな不埒《ふらち》を働いている奴にも似あわず、おそろしくかいがいしい女で、働くにはよく働くんです。世間体をごまかす為ばかりでなく、まったく服装《なり》にも振りにも構わずに働いて、一生懸命に金をためる。色男の伝介には何一つ貢《
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