証拠が残らないことになる。どうしても死骸を寝かしている間になんとか決めてくれないでは困るというのであった。山城屋でも持て余して、半七の家へ使をやると、彼はもう出てしまったあとなので、どうすることも出来なかった。何やかやと捫着《もんちゃく》しているうちに、徳蔵の声はだんだん大きくなるので、山城屋の主人も我《が》を折って、かれの要求する三百両に対して百両を提供して、この以上はどうしても肯《き》くことはならない、これで不承知ならどうともしろと云い渡すと、徳蔵の方でも我《が》を折って、とうとうそれで納得することになった。かれは百両の金と引き換えに弟の死骸をひき取ることについて何の苦情はないという、後日《ごにち》のために一札を書かされた。
その話を聴いて、半七はうなずいた。
「ああ、そうでしたか。だが、まあ、それで無事に納まれば結構でしょう。なにしろ、こんなことの出来《しゅったい》したのがお互いの災難ですからね」
「どうも仕方がございますまい」と、利兵衛はまだあきらめ切れないように云った。
「そこで、つかんことを訊くようですが、お此さんは針仕事をしますかえ」
「はい。針仕事は上手《じょうず》でございまして、それになんにも用がないもんですから、隠居所の方で毎日なにか仕事をして居ります」
半七はかんがえながら又訊いた。
「わたしは知りませんが、裏の隠居所というのは広いんですかえ」
「いえ、それほど広くもございません。女中部屋ともで六間《むま》ばかりで、隠居はたいてい奥の四畳半の部屋に閉じ籠っております」
「娘は……針仕事をするんじゃあ明るいところにいるんでしょうね」
「南向きの横六畳で、まえが庭になっております。そこが日あたりがいいもんですから、いつもそこで仕事をしているようでございます」
「店の方から庭づたいに行けますか」
「木戸がありまして、そこから隠居所の庭へはいれるようになって居ります」
「なるほど」と、半七は思わずほほえんだ「それから其の隠居所の、お此さんのいる六畳の部屋で、近い頃に障子の切り貼《ば》りでもしたことはありませんかえ」
「さあ」と、利兵衛はすこし考えていた。「隠居所の方のことはくわしく存じませんが、そう云えば何でもこの月はじめに、隠居所の障子を猫が破いたとか云って、小僧が切り貼りに行ったことがあったようでした。併しそれはお此さんの部屋でしたか、どうでし
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