《しいだ》すであろうと、荒物屋のおかみさんは羨ましそうに話した。
 徳蔵の女房は吉原の河岸店《かしみせ》の勤めあがりで、年《ねん》あきの後に、徳蔵のところへ転《ころ》げ込んで来たのである。亭主よりも四つ年上で、今年二十九になるが、商売あがりには珍らしい位にかいがいしい女で、服装《なり》にも振りにも構わずに朝から晩までよく動く。徳さんは良いおかみさんを持って仕合わせだと、これも近所に羨まれているとのことであった。
 半七は荒物屋を出て、更にほかの家で訊《き》いてみたが、近所の噂はみな一致していて、誰も魚屋の夫婦を悪くいう者はなかった。それほど評判のいい徳蔵が根もないことを云いがかりにして、弟の主人の店へねじ込んで行こうとは思われなかったが、それにしても三百両という大金をねだるのは少し法外であると半七は思った。勿論、人の命に相場はない、千両万両といわれても仕方がないのであるが、それほど正直者の徳蔵が自分の方から金高を切り出して強請《ゆすり》がましいことを云いかけるのがどうも呑み込めないように思われてならなかった。
 この上は正面から魚屋へ押し掛けて、徳蔵夫婦の様子を探るよりほかは無いと思ったので、半七はそこらの紙屋へ寄って、黒い水引《みずひき》と紙とを買って香奠《こうでん》の包みをこしらえた。それをふところにして徳蔵の店へゆくと、狭い家のなかには近所の人らしいのが五、六人つめ掛けていて、線香の匂いが家じゅうにただよっていた。
「ごめんなさい」
 声をかけると、一人の女が起って来た。三十に近い、色の蒼白《あおじろ》い、痩せぎすの女房で、それがお留であるらしいことを半七はすぐに看《み》て取った。
「こちらは魚屋の徳蔵さんでございますか」
「はい」と、女は丁寧に答えた。
「御亭主はお内ですか」
「やどは唯今出ましてございます」
「左様でございますか」と、半七は躊躇しながら云い出した。「実はわたくしは外神田の山城屋さんの町内にいるものでございますが、うけたまわればこちらの徳次郎さんはどうも飛んだことで……。わたくしも御近所で、徳次郎さんとはふだんから御懇意にいたして居りましたので、ちょっとお線香あげに出ました」
「それは、それは、ありがとうございます。穢《きたな》いところでございますが、どうぞこちらへ……」
 女はちょっと眼をふきながら、半七を内へ招じ入れた。どこで借りて来たの
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