ょう。だが、番頭さん。隠居所の方へは誰か気の利《き》いた者をもう一人やっておく方がようござんすね」
「そうでございましょうか」
「その方が無事でしょうよ」
「はい」と、利兵衛はなんだか呑み込めないような顔をしてうなずいた。「では、なにぶん宜しくねがいます」
「つまりお此さんが確かに小僧を殺したか殺さないかが判ればいいんでしょう。それさえ判れば水かけ論じゃあねえ、こっちが立派に云い開きが出来るんですから、金のことなぞはどうとも話が付くでしょう」
「さようでございます。やっぱり御相談をねがいに出てよろしゅうございました。では、くれぐれもお願い申します」
 律儀《りちぎ》一方の利兵衛はくり返して頼んで帰った。こうなると、三社祭りなどは二の次にして、半七はまず山城屋の問題を研究しなければならなかった。徳次郎という小僧は果たして山城屋の娘に殺されたのか。あるいは誰かその兄貴の尻押しをして、山城屋に対して根もない云いがかりをしたのか。半七は午飯を食いながらいろいろに考えた。
「山城屋さんに面倒なことでも出来たんですか」と、女房のお仙は膳を引きながら訊いた。
「むむ。だが、大してむずかしいこともあるめえ。おれはこれから玄庵さんのところへ行ってくるから、着物を出してくれ」
 箸をおくと、すぐに着物を着かえて、半七は傘を持って表へ出ると、雨はまだ未練らしく涙を降らしていたが、だんだん剥《は》げてくる雲のあいだからは薄い日のひかりが柔《やわら》かに流れ出して来た。近所の屋根では雀の鳴く声もきこえた。玄庵は町内に住んでいる町医者で、半七はかねて心安くしているので、参考のためにまずそれをたずねて、口中の病気についていろいろの容態や療治法などを聞きただした上で、さらに相生町の徳蔵の家《うち》をたずねてゆくと、柳原|堤《どて》へ差しかかる頃に空はまったく明るくなって、ぬれた柳のしずくが光りながらこぼれているのも春らしかった。
 両国橋を渡って本所へはいると、徳蔵の家は相生町二丁目にあった。間口は狭いが、ともかくも表店で、きょうは勿論商売を休んでいるらしかった。近所の荒物屋できくと、徳蔵はお留という女房と二人ぐらしで、徳蔵が盤台をかついで商売に出た留守は、お留が店の商いをしているのであった。亭主もよく稼ぎ、女房もかいがいしく働くので、小金は溜めているらしい。あの人達は今に身上《しんしょう》を仕出
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