でね、まあ、聴いてください」
 いつまでも膝にからみ付いている小猫を追いやりながら、老人はしずかに話し出した。

 文久二年の秋ももう暮れかかって、芝神明宮の生姜市《しょうがいち》もきのうで終ったという九月二十二日の夕方の出来事である。神明の宮地から遠くない裏店《うらだな》に住んでいるおまき[#「おまき」に傍点]という婆さんが頓死した。おまきは寛政|申《さる》年生まれの今年六十六で、七之助という孝行な息子をもっていた。彼女は四十代で夫に死に別れて、それから女の手ひとつで五人の子供を育てあげたが、総領の娘は奉公先で情夫《おとこ》をこしらえて何処へか駈け落ちをしてしまった。長男は芝浦で泳いでいるうちに沈んだ。次男は麻疹《はしか》で命を奪《と》られた。三男は子供のときから手癖が悪いので、おまきの方から追い出してしまった。
「わたしはよくよく子供に運がない」
 おまきはいつも愚痴をこぼしていたが、それでも末っ子の七之助だけは無事に家に残っていた。しかも彼は姉や兄たちの孝行を一人で引き受けたかのように、肩揚げのおりないうちからよく働いて、年を老《と》った母を大切にした。
「あんな孝行息子をもって
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