#「ぞっ」に傍点]としました」
 恐怖におののいている其の声にも顔色にも、詐りを包んでいるらしくないのは、多年の経験で半七にもよく判った。かれも釣り込まれてまじめになった。
「じゃあ、おまえもここの婆さんが猫になったのを見たのか」
 確かに見たとお初は云った。
「それがこういう訳なんです。おまきさんの家に猫がたくさん飼ってある時分には、その猫に喰べさせるんだと云って、七之助さんは商売物のお魚《さかな》を毎日幾|尾《ひき》ずつか残して、家へ帰っていたんです。そのうちに猫はみんな芝浦の海へほうり込まれてしまって、家には一匹もいなくなったんですけれど、おふくろさんはやっぱり今まで通りに魚を持って帰れと云うんだそうです。七之助さんはおとなしいから何でも素直にあいあいと云っていたんですけれど、良人《うちのひと》がそれを聞きまして、そんな馬鹿な話はない、家にいもしない猫に高価《たか》い魚をたくさん持って来るには及ばないから、もう止した方がいいと七之助さんに意見しました」
「おふくろはその魚をどうしたんだろう」
「それは七之助さんにも判らないんだそうです。なんでも台所の戸棚のなかへ入れて置くと、あしたの朝までにはみんな失《なく》なってしまうんだそうで……。どういうわけだか判らないと云って、七之助さんも不思議がっているので、良人が意地をつけて、物は試しだ、魚を持たずに一度帰ってみろ、おふくろがどうするかと……。七之助さんもとうとうその気になったと見えて、このあいだの夕方、神明様の御祭礼《おまつり》の済んだ明くる日の夕方に、わざと盤台を空《から》にして帰って来たんです。わたくしも丁度そのときに買物に行って、帰りに路地の角で逢ったもんですから、七之助さんと一緒に路地へはいって来て、すぐに別れればよかったんですが、きょうは盤台が空になっているからおふくろさんがどうするかと思って、門口《かどぐち》に立ってそっと覗いていると、七之助さんは土間にはいって盤台を卸しました。すると、おまきさんが奥から出て来て……。すぐに盤台の方をじろりと見て……おや、きょうはなんにも持って来なかったのかいと、こう云ったときに、おまきさんの顔が……。耳が押っ立って、眼が光って、口が裂けて……。まるで猫のようになってしまったんです」
 その恐ろしい猫の顔が今でも覗いているかのように、お初は薄暗い奥を透かして息をのみ込んだ。半七も少し煙《けむ》にまかれた。
「はて、変なことがあるもんだな。それからどうした」
「わたくしもびっくりしてはっ[#「はっ」に傍点]と思っていますと、七之助さんはいきなり天秤棒を振りあげて、おふくろさんの脳天を一つ打ったんです。急所をひどく打ったと見えて、おまきさんは声も出さないで土間へ転げ落ちて、もうそれ限《ぎ》りになってしまったようですから、わたくしは又びっくりしました。七之助さんは怖い顔をしてしばらくおふくろさんの死骸を眺めているようでしたが、急にまたうろたえたような風で、台所から出刃庖丁を持ち出して、今度は自分の喉を突こうとするらしいんです。もう打捨《うっちゃ》っては置かれませんから、わたくしが駈け込んで止めました。そうして訳を訊きますと、七之助さんの眼にもやっぱりおふくろさんの顔が猫に見えたんだそうです。猫がいつの間にかおふくろさんを喰い殺して、おふくろさんに化けているんだろうと思って、親孝行の七之助さんは親のかたきを取るつもりで、夢中ですぐに撲《ぶ》ち殺してしまったんですが、殺して見るとやっぱりほんとうのおふくろさんで、尻尾《しっぽ》も出さなければ毛も生えないんです。そうすると、どうしても親殺しですから、七之助さんも覚悟を決めたらしいんです」
「婆さんの顔がまったく猫に見えたのか」と、半七は再び念を押すと、お初は自分の眼にも七之助の眼にも確かにそう見えたと云い切った。さもなければ、ふだんから親孝行の七之助が親の頭へ手をあげる道理がないと云った。
「それでも其のうちに正体をあらわすかと思って、死骸をしばらく見つめていましたが、おまきさんの顔はやっぱり人間の顔で、いつまで経っても猫にならないんです。どうしてあの時に猫のような怖い顔になったのか、どう考えても判りません。死んだ猫の魂がおまきさんに乗憑《のりうつ》ったんでしょうかしら。それにしても七之助さんを親殺しにするのはあんまり可哀そうですし、もともと良人が知恵をつけてこんなことになったんですから、わたくしも七之助さんを無理になだめて、あの人がふだんから仲良くしている隣り町の三吉さんのところへ一緒に相談に行ったんですが、隣りは空店《あきだな》ですし、路地を出這入りする時にも好い塩梅に誰にも見付からなかったんです。それから三吉さんがいろいろの知恵を貸してくれて、わたくしだけが一と足先へ帰って、初めて死骸
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