地を出ると半七は熊蔵に訊いた。
「そうです。あの嬶、猫婆の話をしたら少し変な面《つら》をしていましたね」
「むむ、大抵判った。お前はもうこれで帰っていい。あとは俺が引き受けるから。なに、おれ一人で大丈夫だ」
熊蔵に別れて、半七はそれから他へ用達に行った。そうして、夕七ツ(午後四時)前に再び路地の口に立った。雨が又ひとしきり強くなって来たのを幸いに、かれは頬かむりをして傘を傾けて、猫婆の南隣りの空家へ忍び込んだ。彼は表の戸をそっと閉めて、しめっぽい畳の上にあぐらを掻いて、時々に天井裏へぽとぽとと落ちて来る雨漏《あまもり》の音を聴いていた。くずれた壁の下にこおろぎが鳴いて、火の気のない空家は薄ら寒かった。
ここの家の前を通る傘の音がきこえて、大工の女房は外から帰って来たらしかった。
四
それから又半|※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《とき》も経ったと思う頃に、濡れた草鞋の音がこの前を通って、隣りの家の門口《かどぐち》に止まった。猫婆の息子が帰って来たなと思っていると、果たして籠や盤台を卸すような音がきこえた。
「七ちゃん、帰ったの」
お初が隣りからそっと出て来たらしかった。そうして、土間に立って何か息もつかずに囁《ささや》いているらしかった。それに答える七之助の声も低いので、どっちの話も半七の耳には聴き取れなかったが、それでも壁越しに耳を引き立てていると、七之助は泣いているらしく、時々は洟《はな》をすするような声が洩れた。
「そんな気の弱いことを云わないでさ。早く三ちゃんのところへ行って相談しておいでよ。いいえ、もう一と通りのことはわたしが話してあるんだから」と、お初は小声に力を籠《こ》めて、なにか切《しき》りに七之助に勧めているらしかった。
「さあ、早く行っておいでよ。じれったい人だねえ」と、お初は渋っている七之助の手を取って、曳き出すようにして表へ追いやった。
七之助は黙って出て行ったらしく、重そうな草鞋の音が路地の外へだんだんに遠くなった。それを見送って、お初は自分の家へはいろうとすると、半七は空家の中から不意に声をかけた。
「おかみさん」
お初はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として立ちすくんだ。空家の戸をあけてぬっ[#「ぬっ」に傍点]と出て来た半七の顔を見た時に、彼女の顔はもう灰色に変っていた。
「外じゃあ話ができねえ。まあ、ちょいと此処へはいってくんねえ」と、半七は先に立って猫婆の家へはいった。お初も無言でついて来た。
「おかみさん。お前はわたしの商売を知っているのかえ」と、半七はまず訊いた。
「いいえ」と、お初は微かに答えた。
「おれの身分は知らねえでも、熊の野郎が湯屋のほかに商売をもっていることは知っているだろう。いや、知っているはずだ。お前の亭主はあの熊と昵近《ちかづき》だというじゃあねえか。まあ、それはそれとして、お前は今の魚商《さかなや》と何をこそこそ話していたんだ」
お初は俯向いて立っていた。
「いや、隠しても知っている。おめえはあの魚商に知恵をつけて、隣り町の三吉のところへ相談に行けと云っていたろう。さっきも熊蔵が云った通り、その晩にあの七之助が天秤棒でおふくろをなぐり殺した。それをおめえは知っていながら、あいつを庇《かば》って三吉のところへ逃がしてやった。三吉がまた好い加減なことを云って白らばっくれて七之助を引っ張って来た。さあ、どうだ。この占《うらな》いがはずれたら銭は取らねえ。長屋じゅうの者はそれで誤魔化されるか知らねえが、おれ達が素直にそれを承知するんじゃあねえ。七之助は勿論のことだが、一緒になって芝居を打った三吉もお前も同類だ。片っ端から数珠《じゅず》つなぎにするからそう思ってくれ」
嵩にかかって、嚇されたお初はわっ[#「わっ」に傍点]と泣き出した。かれは土間に坐って、堪忍してくれと拝んだ。
「次第によったら堪忍してやるめえものでもねえが、お慈悲が願いたければ真っ直ぐに白状しろ。どうだ、おれが睨んだに相違あるめえ。おめえと三吉とが同腹《ぐる》になって、七之助の兇状を庇っているんだろう」
「恐れ入りました」と、お初はふるえながら土に手をついた。
「恐れ入ったら正直に云ってくれ」と、半七は声をやわらげた。「そこで、あの七之助はなぜおふくろを殺したんだ。親孝行だというから、最初から巧んだ仕事じゃあるめえが、なにか喧嘩でもしたのか」
「おふくろさんが猫になったんです」と、お初は思い出しても慄然《ぞっ》とするというように肩をすくめた。
半七は笑いながら眉を寄せた。
「ふむう。猫婆が猫になった……。それも何か芝居の筋書じゃあねえか」
「いいえ。これはほんとうで、嘘も詐《いつわ》りも申し上げません。ここの家のおまきさんはまったく猫になったんです。その時にはわたくしもぞっ[
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