寒さは眼に泌みるようであった。又蔵は定紋付きの提灯をふり照らして先に立った。三人の草履は暁の霜を踏んで行った。
 水道橋を渡っても、冬の夜はまだ明けなかった。蒼ざめた星が黒い松の上に凍り着いたように寂しく光って、鼠色の靄につつまれたお茶の水の流れには水明かりすらも見えなかった。ここらは取り分けて霜が多いと見えて、高い堤《どて》の枯れ草は雪に埋められたように真っ白に伏して、どこやらで狐の啼く声がきこえた。三人は白い息を吐きながら堤に沿うてのぼってくると、平助は霜にすべる足を踏みこらえるはずみに新らしい草履の緒を切ってしまった。
「これは困った。又蔵、燈火《あかり》を見せてくれ」
 中間の提灯を差し付けさせて、平助は堤の裾にしゃがんで草履の緒を立てていた。どうにかこうにかつくろってしまって、さて振り返って見ると、そばに立っているはずの大三郎の姿がどこかへか消えてしまったのである。二人はおどろいた。子供のことであるから、あるいは自分たちを置き去りにして先に行ったのかとも思ったので、二人は若さまの名を呼びながら後を追ったが、半町ほどの間にそれらしい影は見えなかった。いくら呼んでも返事はなかった。ただ時々狐の声がきこえるばかりであった。
「狐に化かされたんじゃあるまいか」と、又蔵は不安らしく云った。
「まさか」と、平助はあざ笑った。しかし彼にもその理窟が判らなかった。自分がうずくまって草履の鼻緒を立て、又蔵がうつむいて提灯をかざしているうちに、大三郎の姿はいつか消え失せたのである。わずかの間にそんな遠いところへ行ってしまう筈がない。呼んでも答えない筈がない。殊にあたりは往来のない暁方《あけがた》であるから、誰かがこの美少年をさらって行ったとも思われない。平助は実に思案に余った。
「そう云っても子供のことだ。あんまり寒いので無暗に駈け出して行ったのかも知れない」
 二人はここに迷っていてもしようがないので、ともかくも聖堂まで急いで行った。係りの役人に逢って訊いてみると、杉野大三郎どのはまだ到着されないとのことであった。二人は又がっかりさせられた。よんどころなく再び引っ返して、もと来た道を探して歩いたが、どこにも大三郎の姿は見付からなかった。
「いよいよ狐に化かされたか。それとも神隠しか」と、平助もだんだんに疑いはじめた。
 この時代には神隠しということが一般に信じられていた。子供ばかりではない、相当の年頃になった人間でも、突然に姿をかくして五日、十日、あるいは半月以上、長いのは半年一年ぐらいも其のゆくえの知れないことがしばしばある。そうして、ある時に何処からともなしに飄然と戻って来るのである。その戻ってくる場合も常とは違って、ある者は門前に倒れているのもある。ある者は裏口にぼんやり突っ立っているのもある。甚だしいのは屋根の上でげらげら笑っているのもある。だんだん介抱して様子を聞きただしても、本人は夢のようでなんにも記憶していないのが多い。ある者は奇怪な山伏に連れられて遠い山奥へ飛んで行ったなどと云う。その山伏はおそらく天狗であろうと云い伝えられている。仮りにも武士たるものがそんな怪異を信ずべきではないと思いながら、平助も今の場合、あるいは主人の息子もその天狗山伏に掴み去られたのではないかという幾分の不安がきざして来た。
 いずれにしてもこれは一大事である。幼い主人の供をして出て、そのゆくえを見失ったとあっては、二人ともにおめおめと屋敷へは戻られない。又蔵はともあれ、仕儀に依っては平助は申し訳に腹でも切らなければならないことになる。二人は顔の色を変えてただ溜息をつくばかりであった。
「仕方がない。屋敷へ帰って有体《ありてい》に申し上げるよりほかはあるまい」
 平助はもう度胸を据えて、又蔵と一緒に引っ返した。先刻から往きつ戻りつ、よほどの時を費したので、二人が力のない足を引き摺って再び水道橋を渡る頃には、又蔵の提灯の蝋はもう残り少なくなっていた。狐の声は鴉の声に変っていた。
 杉野の屋敷でもこの不思議な報告を受け取って上下ともに顛倒した。併しみだりにこんなことを世間に発表してはならぬと、主人の大之進は家中の者どもの口を封じさせた。聖堂の方へは大三郎急病の届けを差し出して、当日の吟味を辞退することにした。平助と又蔵は無論にその不調法をきびしく叱られたが、主人は物の分かった人であるので、この不調法の家来どもに対して一途《いちず》にひどい成敗《せいばい》を加えようとはしなかった。二人に対しては、せいぜい心をつけて一日も早く伜のゆくえを探し出せと命令した。
 これは云うまでもないことで、平助と又蔵とは当然の責任者として、是非とも若殿のゆくえを探し出さなければならなかった。彼等ばかりでなく、屋敷中の者はみんな手分けをして心当りを探索することとなった。奥
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