といえば誰でも知っていますよ」
朝顔屋敷――その名を聞いて半七は思い出した。それは杉野の屋敷であるかどうかは知らなかったが、四番町辺に朝顔屋敷という怪談の伝えられていることは、彼もかねて聞いていた。皿屋敷、朝顔屋敷、とかくに番町に化け物屋敷のようなものの多いのは、この時代の名物であった。世間の噂によると、朝顔屋敷の遠い先代の主人がなにかの仔細で妾を手討ちにした。それは盛夏《まなつ》のことで、その妾は朝顔の模様を染めた浴衣を着ていたとかというので、その以来、朝顔が不思議にこの屋敷に祟《たた》るのであった。広い屋敷内に朝顔の花が咲くと、必ずその家に何かの凶事があるというので、夏から秋にかけては中間どもが屋敷の庭から裏手の空地まで毎日油断なく見まわって、朝顔夕顔のたぐい、仮りにも花の咲きそうな蔓をみると片っ端から引き抜いてしまうことになっている。朝顔の絵をかいた団扇《うちわ》を暑中見舞に持って来たために、出入りを差し止められた商人《あきんど》もあるという。そんな話は半七もとうに知っていたが、それが杉野の屋敷であることは初耳であった。
「そうか。あすこが朝顔屋敷か」
「外からはいった者にどういうこともないでしょうけれど、昔から化け物屋敷と名のついている屋敷へ出入りするのは、なんだか気味が悪うござんすからね」と、お六は顔をしかめて見せた。
「それもそうだな」
云いかけてふと見かえると、その朝顔屋敷の表門から一人の武士《さむらい》が出て来て、九段の方角へしずかにあるいて行った。武家の中小姓とでもいいそうな風俗であった。
「お前、あの人を知らねえか」と、半七は頤で示してお六に訊いた。
「口を利いたことはありませんけれど、あの人はなんでも山崎さんというんですよ」
中小姓の山崎平助に相違ないと半七はすぐに鑑定したので、彼はお六に別れてそのあとを追って行った。往来の少ない屋敷の塀の外で、彼はうしろから平助に声をかけた。
「もし、もし、失礼でございますが、あなたは杉野様のお屋敷の方じゃございませんか」
「左様」と武士は振り返って答えた。
「実はけさほどお屋敷の御用人様にお目にかかりましたが、お屋敷では御心配なことが出来《しゅったい》しましたそうで、お察し申し上げます」
相手は油断しないような顔をしてこちらを睨んでいるので、半七は用人の角右衛門に逢ったことを話した。そうして、あなた
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