死骸を抱き起して身体じゅうをあらためて見た。
「すっかり拝見しました」と、半七は死骸を元のように寝かしながら云った。それから起って縁側へ出て、手水鉢《ちょうずばち》で両手を浄《きよ》めて来て、しばらく黙って考えていた。
「判りましたか」と、軍右衛門は待ち兼ねて催促した。
「いや、すぐにはどうも……。そこで、心得のために伺って置きたいのでございますが、ゆうべから今朝にかけて、別にお心当りはなんにもございませんでしたか」
 無論に心当りはないと軍右衛門は躊躇せずに答えた。ゆうべは屋敷に歌留多《かるた》会の催しがあって、親類の人たちや隣り屋敷の子息や娘や、大供小供をあわせて二十人ほどが寄りあつまって、四ツ(午後十時)を過ぎる頃まで賑やかに騒ぎあかした。その疲れで屋敷じゅうの者もみんな好く寝込んでしまったので高い大屋根の上に這いのぼった者があったか、転げ落ちた者があったか、誰も一向気がつかなかった。現にけさもよそから注意されて初めてそれを発見したくらいであるから、それが宵のことか、夜半《よなか》のことか、暁け方のことか、まるでなんにも見当は付かないと云った。
「この子供の人相はまったく何人《どなた》も御存じないんですね」と、半七は念を押した。
「わたしは無論見おぼえがない。屋敷中のものも残らず詮議したが、誰も見識っている者はないと云っている。この娘の風体から見ると、どうも町人らしいが……」
「左様でございます」と、半七はうなずいた。「どうしても御屋敷方じゃございません。それから恐れ入りますが、この死骸の落ちていた大屋根のあたりを一度みせていただくわけにはまいりますまいか」
「承知いたしました」
 軍右衛門は先に立って長屋を出て、玄関先へ半七を案内した。かれは二人の中間《ちゅうげん》をよんで、玄関の横手から再び長梯子をかけさせると、半七は身づくろいをしてすぐにするすると登って行って、大屋根の上に突っ立った。そうして、誰か一緒に来てくれと、上から小手招《こてまね》ぎをすると、小作りの中間一人があとからつづいて登って来たので、その中間に教えられて、かれは死骸の横たわっていた場所は勿論、高い大屋根のうえをひと巡り見まわって降りた。

     二

 黒沼の屋敷を出て、半七は更に馬道《うまみち》の方へ行った。そこに住んでいる子分の庄太を呼び出して、あの屋敷に就いてふだんから何か小耳にはさんでいることはないかと詮索したが、庄太は別に聞き込んだことはないと云った。黒沼家は近所でも評判の堅い屋敷で、奉公人もみんな風儀が好い。今度の一件もおそらく屋敷内の者にかかり合いはあるまいとの判断であった。
「そうか。じゃあ、まあ仕方がねえ」と、半七は青々と晴れた正月の大空を仰いだ。「どうだ、庄太。きょうは天気も好し、あんまり空《から》っ風も吹かねえから、十万坪の方まで附き合わねえか」
「十万坪……」と庄太は妙な顔をした。「あんなところへ何しに出かけるんです」
「久しく砂村のお稲荷様へ参詣しねえから、ふいと思い立ったのよ。きょうは仕事も半ちくだから、急に御信心がきざしたんだ。迷惑でなければ一緒に来てくれ」
「ようがす。わっしもどうでひまな人足なんですから、どこへでもお供しますよ」
 二人はすぐに連れ立って出た。もうかれこれ八ツ(午後二時)過ぎだというのに、これから何で深川の果てまでわざわざ出かけるのかと、庄太は内心不思議に思っているらしかったが、黙って素直について来た。吾妻《あずま》橋を渡って、本所を通り越して、深川の果ての果て、砂村|新田《しんでん》の稲荷前にゆき着いたのは八幡の鐘がもう夕七つ(午後四時)を撞き出したあとで、春といってもまだ日※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]《ひあし》の短いこの頃の夕風は、堤《どて》下に枯れのこっている黄色い蘆の葉を寒そうにふるわせていた。
「親分。ちっと冷えて来ましたぜ」と、庄太は襟をすくめた。
「ああ、日が落ちかかると、やっぱり寒い」
 稲荷のやしろに参詣して、二人はそこにある葭簀《よしず》張りの掛茶屋にはいった。もうそろそろと店を仕舞いにかかっていた女房は、客を見て急に笑顔をつくった。
「お寒いのに遠方御信心でございます。なんにもございませんが、お団子でもあっためて差上げましょうか」
「なんでも好いから熱い茶を一杯飲まして貰おう」と、庄太はよほどくたびれたらしい顔をして、床几に腰をおろした。
 焼きざましの団子をもう一度あぶり直して、女房はいそがしそうに薬鑵の下を渋団扇であおいでいた。
「おかみさん。この頃はおまいりがたくさんありますかえ」と、半七は訊いた。
「なにしろお寒いもんですから」と、女房は茶を運びながら答えた。「これでも来月になるとずっとお賑やかになります」
「そうだろう。来月はもう初午《はつうま》だか
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