が今時分こんなところへ出てくるのがおかしいと思っていたんだが、十万坪へ行くの、砂村へおまいりするのと云って、なにか最初から心あたりがあったんですかえ」
「まんざらないこともなかったが、あんまり雲を掴むような話で、おめえに笑われるのも業腹《ごうはら》だから実は今まで黙っていたが、おめえをここまで引っ張り出したのは、もしやという心頼みがちっとはあったんだ」
「それにしても、こっちの方角とはどうして見当を付けなすった」
「それがおかしい。まあ、聞いてくれ」と、半七は又ほほえんだ。「黒沼の屋敷へ云って、用人の部屋で娘の死骸をみせて貰うと、からだには別に疵らしい痕もねえから、病死したものをそっと運んで来たのかとも思ったが、よく見ると娘の襟っ首に小さい爪のあとのようなものが薄く残っている。それも人間の爪じゃあねえ、どうも鳥か獣《けもの》の爪らしい。と云って、まさか天狗の仕業でもあるめえし、はて何か知らんとかんがえながら屋敷を出て、おめえの家の方角へぶらぶらやってくると、絵草紙屋の店先でふとおれの眼についた一枚絵がある。それは広重《ひろしげ》が描いた江戸名所で、十万坪の雪の景色だ。おめえ、知っているか」
「知りません。わっしはそんなものはきれえですから」と、庄太は苦笑いした。
「そうだろう。おれも別に好きというわけじゃあねえが、商売柄だから何にでも眼をつける。そこで、見るともなしにふと見ると、今もいう通り、その絵は十万坪の雪の景色で、雪が真っ白に降っていると、その大空に大きい鷲が羽をひろげて飛んでいるんだ。なるほど能く描いた、実に面白い図柄だと思っているうちに、また思いついたのが黒沼の屋敷の一件だ。まさかに天狗が掴んだのでもねえとすれば、娘を引っ掴んで来たのは鷲の仕業かもしれねえ。襟っ首に残っている爪の痕もそうだろう。しかしそれはほんの一時の出来心で、自分ながらあぶなっかしいと思ったから、ともかくもお前に逢ってだんだん訊いてみると、黒沼の屋敷に悪い評判はきこえず、お前もなんにも心当りがねえという。それじゃあ念のために十万坪の方角へ踏み出して見ようと思い立って、わざわざお前を引っ張り出したんだ。勿論、相手は鳥のことだから何も十万坪に限ったこともねえ。王子へ出るか、大久保へ出るか、とても見当の付くわけのもんじゃねえが、なにしろ十万坪の絵から考え出したんだから、ともかくも其の方角へ行っ
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