そばまで来ると、門のなかから一人の女が出て来た。顔は確かにみえないが、その格好がどうもかのお時らしいので、半七はすぐにその後を尾《つ》けてゆくと、女はこの間の蕎麦屋へはいった。
こっちの顔を識っている筈はないと多寡をくくって、半七も少しあとからその暖簾をくぐると、狭い店にはお時のほかにもう一人の男が来ていた。唐桟《とうざん》の半纒を着て平ぐけを締めたその男の風俗が、堅気の人間でないことは半七にもすぐに覚られた。男は二十五六で、色のあさ黒い立派な江戸っ子であった。彼はここでお時を待ち合わせていたらしく、女と向い合って酒を飲んでいた。半七は隅の方に坐って、好い加減な誂え物をした。
男も女も時々こっちを後目《しりめ》に視ていたが、格別に気を置いてもいないらしく、火鉢に仲よく手をかざしながら、小声でしきりに話していた。
「もうこうなっちゃあ、仕方がないやね」と、女は云った。
「おれが出なけりゃあ幕が閉まらねえかな」と、男は云った。
「ぐずぐずしていて……。心中でもされた日にゃあ玉無しだあね」と、女は小声でおどすように云った。
それから先きは聴き取れなかったが、心中という一句を聞いて、半七
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