呼びかけられて、按摩はおびえたように立ち停まったが、きょうも何か頻《しき》りに云い訳して摺り抜けて行こうとするのを女はまた曳き戻した。こうした捫着《もんちゃく》がたびたび続くので、半七も少しおかしく思って、もうつくろってしまった泥下駄を再びいじくるような風をして横眼でそっと窺っていると、按摩はあくまでも強情に振り切って、きょうも逃げるように此処を立ち去ってしまった。
「ほんとうにしようのない人だねえ」
口小言を云いながら女は内へ引っ込んだ。そのうしろ姿の消えるのを見送って、半七はもう五、六間ゆき過ぎている按摩の傘の白い影を追った。彼はうしろから声をかけた。
「おい、按摩さん。徳寿さん」
「はい、はい」
聞き慣れない声に按摩は少し首をかしげて立ち停まると、半七は傘をならべて立った。
「徳寿さん。寒いね。べらぼうに降るじゃあねえか。おまえにゃあ廓《なか》で二、三度厄介になったことがあったっけ。それ、このあいだも近江屋の二階でよ」
「はあ、左様でございましたか。年を取りますと、だんだんに勘がわるくなりまして、御贔屓様に毎々失礼をいたして相済みません。旦那もこれから廓へお出かけでございますか。こういう晩にお通いもまたお楽しみなものでございます。わが物と思えば軽し傘の雪とか申しましてね。ははははは」
こっちの出鱈目《でたらめ》を知っているのか、知らないのか、徳寿は如才なく調子をあわせた。
「なにしろ悪く寒いね」
「この二、三日は冴え返りました」
「これから田圃を突っ切るのは楽じゃあねえ。どうだい、あすこで蕎麦の一杯も啜《すす》り込んで威勢をつけて行こうじゃねえか。おまえも附き合わねえか。廓へはいるのはまだちっと早かろう」
「はい、はい、どうも御馳走さまでございます。わたくしは下戸《げこ》でございますけれど、御酒《ごしゅ》を召しあがるお方は一杯あがらなければ、この田圃はちっと骨が折れます。はい、はい、ありがとうございます」
一町ばかりを引っ返して、半七は小さな蕎麦屋の暖簾《のれん》をくぐると、徳寿は頭巾の雪をはたきながら、古びた角火鉢へ寒そうに咬《かじ》り付いた。半七は種物《たねもの》と酒を一本あつらえた。
「これはあられ[#「あられ」に傍点]でございますね。江戸前の種物はこれに限ります。海苔の匂いも悪くございませんね」と、徳寿は顔じゅうを口にして、蕎麦のあたたかい匂いを嬉しそうに嗅《か》いでいた。
蕎麦屋の女房は門《かど》の行燈に灯を入れると、その薄暗い灯かげに照らされて、花びらのような大きい雪が重そうにぼたぼた落ちているのが暖簾《のれん》越しに見えた。一本の酒をやがて半分ほど飲んだ頃に、半七は話し出した。
「徳寿さん。おまえが今あすこで立ち話をしていたのは何処の寮だえ」
「旦那はあの辺においでなさいましたか。ちっとも存じませんで。はははは。いえ、あすこは廓の辰伊勢という家《うち》の寮でございますよ」
「先方じゃあ頻りに呼び込もうとするのを、おまえは無暗に逃げていたじゃあねえか。廓の寮ならば好いお得意様だ」
「ところが、旦那。どうもあすこは工合《ぐあい》が悪いんでしてね。いえ、別に代をくれないの何のという訳じゃないんですが、なんですかこう、気味の悪いような家でしてね」
半七は飲みかけた猪口《ちょこ》をおいた。
「気味の悪い家……。そりゃあどういうんだね。まさかに化けものが出る訳でもあるめえ」
「へえ、別にそんな噂もないんですが、わたくしはどうも気味が悪うございまして……。あすこで呼ばれると何だがぞっ[#「ぞっ」に傍点]として、逃げるように断わって来るんですよ」と、徳寿は鼻の頭の汗を手の甲で拭きながら云った。
「変な話だね」と、半七は笑った。「どういうわけで気味が悪いんだろう。判らねえな」
「わたくしにも判りません。ただ何となしに襟もとから水を浴びせられたように、からだ中がぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするんです。眼が見えませんからなんにも判りませんけれど、なにかこう、おかしなものが傍にでも坐っているような工合で……。まったく変でございますよ」
「一体あの寮には誰が来ているんだね」
「誰袖《たがそで》さんという花魁でございます。二十一二の勤め盛りで、凄いような美《い》い女だそうでございますが、去年の霜月頃から用事をつけて、あの寮へ出養生に来ているんでございますよ」
「暮から春へかけて店を引いているようじゃあ、よっぽど悪いんだろうね」
それ程でもないらしいと徳寿は云った。勿論、盲人の彼には詳しい様子もわからないが、いわゆるぶらぶら病いで寝たり起きたりしているらしいとの事であった。それにしても、その辰伊勢の寮がなぜそれほどに気味が悪いというのか、その仔細が半七には判らなかった。徳寿がもうたくさんだと辞退するのを、無理に蕎麦の代りを取
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