であった。
「お時さん。いけませんよ。きょうはこれから廓《なか》にお約束があるんですから、まあ堪忍しておくんなさいよ」と、按摩は逃げるように振り切って行こうとするのを、お時という女はまた曳き戻した。
「それじゃああたしが困るんだからさ。按摩さんはほかにも大勢あるけれども、花魁はお前さんが御贔屓《ごひいき》で、ほかの人じゃあいけないと云うんだから、素直に来てくれないと、あたしが全く困るんだよ」
「御贔屓にして下さるのはまことにありがたいことで、いつもお礼を申しているのでございますが、きょうは何分にも前々からのお約束がありますので……」
「嘘をおつきよ、お前さんは此の頃毎日そんなことを云っているんだもの。花魁だってあたしだって本当に思うかね。ぐずぐず云ってないで早く来ておくれよ。焦《じ》れったい人だねえ」
「でも、いけませんよ。まったくきょうばかりは堪忍して下さい」
 どっちもなかなか強情で、容易に埒が明きそうにもなかった。しかし格別に面白そうな事件でもないので、半七は好い加減に聞き流して通り過ぎた。雪は景色ばかりで、家へ帰りつく頃には歇《や》んでしまったが、それから陰った日が二日ほどつづいた。三日目に半七はふたたび竜泉寺前へ行かなければならない用事が出来た。
「きょうこそはあぶねえ」
 かれは雨傘を用意してゆくと、大きい雪が果たして落ちて来た。帰りはやはり七ツ過ぎになって、入谷の田圃はもう真っ白に埋められていた。重い傘をかたげて、このあいだの寮の前まで来ると、日和《ひより》下駄の前鼻緒があいにく切れた。半七は舌打ちをしながら塀ぎわに身を寄せて、間にあわせにつくろっていると、雪を踏む下駄の音がきこえて、門の中からこの間の女が飛石伝いに出て来た。
「まあ、いつの間にか積ったこと」
 独り言を云いながら、彼女は人待ち顔にたたずんでいたが、傘を持っていない彼女は髪を打つ雪に堪えないと見えて、やがて内へ引っ返してしまった。
 手が亀縮《かじか》んでいるので、鼻緒を立てるのに暇がかかって、半七はようように下駄を突っかけて、泥だらけの手を雪で揉んでいるころへ、このあいだの按摩が馴れた足取りですたすた歩いて来た。その下駄の音を聞き付けたとみえて、女は待ち兼ねたように内からぬけ出して来た。前に懲《こ》りたのであろう。今度は傘をすぼめて差していた。
「徳寿さん。きょうは逃がさないよ」
 
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