半七捕物帳
春の雪解
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)河内山《こうちやま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)江戸|町《ちょう》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)これはあられ[#「あられ」に傍点]でございますね
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一
「あなたはお芝居が好きだから、河内山《こうちやま》の狂言を御存知でしょう。三千歳《みちとせ》の花魁《おいらん》が入谷の寮へ出養生をしていると、そこへ直侍《なおざむらい》が忍んで来る。あの清元の外題《げだい》はなんと云いましたっけね。そう、忍逢春雪解《しのびあうはるのゆきどけ》。わたくしはあの狂言を看《み》るたんびに、いつも思い出すことがあるんですよ」と、半七老人はつづけて話した。「勿論お話の筋道はまるで違いますがね。舞台は同じ入谷《いりや》田圃《たんぼ》で、春の雪のちらちら降る夕方に、松助の丈賀のような按摩《あんま》が頭巾をかぶって出て来る、その場面の趣があの狂言にそっくりなんですよ。まあ、聴いてください。わたくしの方は素話《すばなし》で、浜町の太夫さんの粋な喉を聴かせるなんていうわけには行かないんですから、お話に艶《つや》はありませんがね」
慶応元年の正月の末であった。神田から下谷の竜泉寺前まで用達《ようたし》に行った半七は、七ツ半(午後五時)頃に先方の家を出ると、帰り路はもう薄暗くなっていた。春といっても此の頃の日はまだ短いのに、きょうは朝から空の色が鼠に染まって、今にも白い物がこぼれ落ちそうな暗い寒い影に掩われているので、取り分けて夕暮が早く迫って来たように思われた。先方でも傘を貸してやろうと云ってくれたが、家《うち》へ帰るまで位はどうにか持ちこたえるだろうと断わって、半七はふところ手でそこを出ると、入谷田圃へさしかかる頃には、鶴の羽をむしったような白い影がもう眼先へちらついて来たので、半七は手拭を出して頬かむりをして、田圃を吹きぬける寒い風のなかを突っ切って歩いた。
「ちょいと、徳寿さん。おまえさんも強情《ごうじょう》だね。まあ、ちょいと来ておくれと云うに……」
女の声が耳にはいったので、半七はふと見かえると、どこかの寮らしい風雅な構えの門の前で、年頃は二十五六の仲働きらしい小粋な女が、一人の按摩の袂をつかんで曳き戻そうとしているの
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