んけれど、合羽坂の質屋にいた時分から何か引っ懸りがあるように思われるので、あたしは何だか好い心持がしないもんですから、時々それをむずかしく云い出しますと、いいえ決してそんなことはないと、どこまでもしら[#「しら」に傍点]を切っているんです」
 千次郎は夜泊りなどをする様子はない。商売用のほかに方々遊びあるく様子もない。合羽坂にいるときから鬼子母神様が信仰で、月に二、三度はかならず参詣に来る。その以外には何の怪しい廉《かど》もないが、たった一度、女の手紙らしいものを持っていたことがある。勿論、見付けられると同時に、千次郎はすぐ破ってしまったので、自分はその文句を読んだことはないが、その以来注意して窺っていると、彼はなんだか落ち着かないところがある。自分に対して何か隠し立てをしていることがあるらしい。それが面白くないので、半月ほど前にも自分は彼と喧嘩をした。そうして、是非ともすぐに女房にしてくれと迫ったこともある。それから間もなく、彼は姿を隠したのであった。
「そうか。そいつあいけねえな」と、半七もまじめにうなずいた。「だが、師匠。おふくろに苦労させるのが可哀そうだからなんて、うまくおれを担《かつ》ごうとしたね。おめえもずいぶん罪が深けえぜ。おぼえているが好い。はははははは」
 お登久は真っ紅になって、初心《うぶ》らしく小さくなっていた。

     三

 お登久の姉妹《きょうだい》に土産の笹折を持たせて帰して、半七はまだ茗荷屋に残っていた。
「やい、ひょろ松。犬もあるけば棒にあたるとはこの事だ。雑司ヶ谷へ来たのも無駄にゃあならねえ。合羽坂の手がかりが少し付いたようだ。女中をちょいと呼んでくれ」
 松吉が手を鳴らすと、年増《としま》の女中がすぐに顔を出した。
「どうもお構い申しませんで、済みません」
「なに、少しお前に訊きたいことがある。もとは市ヶ谷の質屋の番頭さんをしていた千ちゃんという人が、時々ここへ遊びに来やあしねえかね」
「はあ。お出でになります」
「月に二、三度は来るだろう」
「よく御存じでございますね」
「いつも一人で来るかえ」と、半七は笑いながら訊いた。「若い綺麗な娘と一緒にじゃあねえか」
 女中は黙って笑っていた。併しだんだんに問いつめられて、彼女はこんなことをしゃべった。千次郎は三年ほど前から、毎月二、三度ずつその若い綺麗な娘と連れ立って来る。昼間来ることもあれば、夕方に来ることもある。現に十日《とおか》ほど前にも、千次郎が先に来て待っていると、午《ひる》頃になって娘が来て、日が暮れるころ一緒に帰ったとのことであった。女中たちのいる前では、二人とも恥かしそうな顔をしてちっとも口を利かないので、誰もきょうまでその娘の名を知らないと彼女は云った。
「十日ばかり前に来たときに、その娘は麻の葉絞りの紅い帯を締めていなかったかね」と、半七は訊いた。
「はあ、たしかにそうでございましたよ」
「いや、ありがとう。姐《ねえ》さん、いずれまたお礼に来るぜ」
 幾らか包んだものを女中にやって、半七は茗荷屋の門《かど》を出ると、松吉もあとから付いて来てささやいた。
「親分、なるほどちっとは当りが付いて来たようですね。なにしろ、その千次郎という野郎を引き挙げなけりゃあいけますめえ」
「そうだ」と、半七もうなずいた。「だが、素人《しろうと》のことだ。いつまで何処に隠れてもいられめえ、ほとぼりの冷《さ》めた頃にゃあ、きっとぶらぶら出て来るに違げえねえ。てめえはこれから新宿へ行って、その古着屋と師匠の家の近所を毎日見張っていろ」
「ようがす。きっと受け合いました」
 松吉に別れて、半七はまっすぐに神田へ帰ろうと思ったが、自分はまだ一度もその現場を見とどけたことがないので、念のために帰途《かえり》に市ヶ谷へ廻ることにした。合羽坂下へ来た頃には春の日ももう暮れかかっていた。酒屋の裏へはいって、格子の外からおみよの家の様子を一応うかがって、それから家主の酒屋をたずねると、御用で来た人だと聞いて、帳場にいた家主も形をあらためた。
「御苦労さまでございます。なにか御用でございますか」
「この裏の娘の家には、その後なんにも変ったことはありませんかね」
「けさほども長五郎親分が見えましたので、ちょっとお話をいたして置きましたが……」
 長五郎というのは四谷から此の辺を縄張りにしている山の手の岡っ引である。長五郎がもう手をつけているところへ割り込んではいるのも良くないと思ったが、折角来たものであるから、ともかくも聞くだけのことは聞いて行こうと思った。
「長五郎にどんな話をしなすったんだ」
「あのおみよは人に殺されたんじゃないんです」と、亭主は云った。「おふくろもその当座は気が転倒しているもんですから、なんにも気が付かなかったんですが、きのうの朝、長火鉢のま
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