、池の岸にも葦の青い芽がまだ見えなかった。ある時、近所のものが通りかかると、岸の浅いところに女の派手な帯が長く尾をひいて、まん中の水の方まで流れているのを発見した。これが普通の池でも相当の問題になるべき発見であるのに、まして昔から帯取りの池という奇怪な伝説をもっている此の池に女の美しい帯が浮かんでいるのであるから、その噂はそれからそれへと伝わって、勿ち近所の大評判となったが、うっかり近寄ったらどんなに恐ろしい目に遇うかも知れないという不安があるので、臆病な見物人はただ遠いほうから眺めているばかりで、たれも進んでその帯の正体を見とどける者がなかった。
 そのうちに尾州家から侍が二、三人出て来た。かれらは袴の股立《ももだ》ちを取って、この泥ぶかい岸に降り立って、疑問の帯をずるずると手繰《たぐ》りあげたが、帯は別に不思議の働きをも見せないで、濡れた尾をひき摺りながら明るい春の日の下にさらされた。帯は池の主《ぬし》ではなかった。やはり普通の若い女が締める派手な帯で、青と紅とむらさきと三段に染め分けた縮緬《ちりめん》地に麻の葉模様が白く絞り出されてあった。
「誰がこんなところへ捨てて行ったんだろう」
 それが第二の疑問であった。帯はまだ新しい綺麗なもので、この時代でも売れば相当の値になるものを、誰が惜し気もなく投げ込んで行ったものか、それに就いてはいろいろの想像説があらわれた。ある者は盗賊の仕業《しわざ》であろうと云った。盗賊がどこからか盗み出して来たのを、邪魔になるので捨てたのか、或いは後の証拠になるのを恐れて捨てたのか、おそらくは二つに一つであろうとのことであった。又ある者は誰かの悪戯《いたずら》であろうと云った。ここが帯取りの池ということを承知の上で、世間の人を騒がすためにわざとこんな帯を投げ込んだものであろうとのことであった。併しそんな悪戯はもう時代おくれで、天保以後の江戸の世界には、相当の物種《ものだね》をつかって世間をさわがせて、蔭で手をうって喜んでいるような悠長な人間は少なくなった。したがって、前の説の方が勢力を占めて、これはきっと盗賊の仕業に相違ないということに決められてしまった。
 併しその盗賊は判らなかった。その被害者もあらわれて来なかった。疑問の帯は辻番所にひとまず保管されることになって、そのまま二日《ふつか》ばかり経つと、ここにまた思いも寄らない事実が
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