御苦労でありました」と、女はいたわるように云った。「もう当分は打ちくつろいでいてもよかろう」
 今まで薄暗かった行燈の灯はかき立てられて、座敷は俄かに明るくなった。女たちが夜食の膳を運んで来た。時分をすぎてさぞ空腹《ひもじ》かったであろうと女たちが丁寧に給仕して、お蝶は蒔絵の美しい膳のまえに坐らせられたが、かれは胸が一ぱいに詰まっているようで、なんにも咽喉《のど》へ通りそうもなかった。かずかず列べられた見事な御料理にも彼女は碌々箸をつけなかった。ともかくも食事が済むと、また少し休息するがよかろうと云って、このあいだの女はしずかにその席を起った。ほかの女たちも膳を引いてどこへか消えてしまった。
 たった一人そこに取り残されて、はじめて幾らかの人心地のついたお蝶は、どう考えても夢のようで何がなにやら見当が付かなかった。もしや狐に化かされているのではないかとも思った。一体ここの人達は、どういう料簡で自分をここへ連れて来て、美しい着物をきせて、旨いものを食わせて、こんな立派な座敷に住まわせて、みんなが大切そうに侍《かしず》いてくれるのであろう。芝居や浄瑠璃にあるように、わたしを誰かの身代りにし
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