た。併しそれは一時のことで、お喋の姿が幾日もみえないと、彼女は姫にあわせろと云って又狂い出した。さりとて人の娘を際限もなく拘禁して置くことはできないので、屋敷の者もまた困った。
その矢先に又一つの新しい問題が起った。それは此の年の七月から新しい布達《ふれ》があって、諸大名の妻女も帰国勝手たるべしということになったので、どこの藩でも喜んだ。一種の人質《ひとじち》となって多年江戸に住んでいることを余儀なくされた諸大名の奥方や子息たちは、われ先にと逃げるように国許《くにもと》へ引きあげた。勿論この屋敷でも奥方を領地へ送ることになったが、乱心同様の奥方が道中に狂い出したらばどうするか。それがみんなの胸に横たわる苦労の重い凝塊《かたまり》であった。そこで評議がまた開かれた。その評議の結論は、どうしてもお蝶を遠い国許まで連れて行くよりほかはないということに帰着した。
併し今度は殆ど永久的の問題で、さすがに無得心で連れ出すわけには行かないので、ともかくも本人や親許にも相談の上、一生奉公の約束で連れて行くことになった。奥女中の雪野がその使をうけたまわって、きのうも親許へたずねて来たのであった。いっそ最初からあからさまに事情を打ち明けたら、こっちもまた分別のしようがあったかも知れなかったが、ひたすらに御家の外聞という事ばかり考えていた雪野は、何事も秘密ずくめで相談をまとめようと焦《あせ》っていた為に、こっちの疑いはいよいよ深くなった。おまけに横合いからお俊のように偽迎いがあらわれた為に、事件はますます縺《もつ》れてしまった。
そのわけを聴いてみると、半七も気の毒になった。子ゆえに狂う母の心と、その母を取り鎮めようと努めている家来どもの苦心と、それに対しても余りに強いことも云われない破目になった。
三畳の隠れ家からお蝶はそろそろ這い出して来た。かれは貰い泣きの眼を拭きながら云った。
「これで何もかも判りました。阿母《おっか》さん、わたくしのような者でもお役に立つなら、どうぞそのお国へやってください」
「え。ほんとうに承知して行ってくださるか」と、雪野はお蝶の手をとって押し頂かないばかりにして礼を云った。
明月は南の空へまわって来て、庭から家のなかまで一ぱいに明るく映《さ》し込んだ。
「おふくろもとうとう承知して、娘を奉公にやることに決めましたよ」と、半七老人は云った。
「そ
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