に江戸屋敷に残されていた。奥方には最愛の姫様《ひいさま》があって、容貌《きりょう》も気質もすぐれて美しいお方であったが、その美しい姫様は明けて十七という今年の春、疱瘡《ほうそう》神に呪われて菩提所の石の下へ送られてしまった。あまりの嘆きに取りつめて母の奥方は物狂おしくなった。祈祷や療治も効がなかった。明けても暮れても姫の名を呼んで、どうぞ一度逢わせてくれと泣き狂うので、屋敷中の者も持て余した。その痛ましさと浅ましさを見るに堪えかねて、用人と老女が相談の末に、姫様によく肖《に》た娘をどこからか借りて来て、姫様に仕立ててお目にかけたらば、奥方のお気も少しは鎮まろうかということになった。併しそんなことが世間に洩れては御屋敷の恥じである。あくまで秘密にこの役目を仕遂げなければならぬというので、二、三人の人が手わけをして心当りを探してあるいた。
 その頃の人は気が長い。そうして、根《こん》よく探しているうちに、用人の一人が永代橋の茶店で図らずもお蝶を見つけ出した。年頃も顔かたちも丁度註文通りに見えたので、かれは更に奥女中の雪野というのを連れて来て眼利きをさせた。誰の眼もかわらないで、幸か不幸かお蝶は合格した。
 いよいよその本人が見付かると、それをどうして連れてくるかということについて、屋敷内では議論が二つに分かれた。ひとの娘を無得心に連れて来るというのは拐引《かどわかし》同様の仕方であるから、内密にその仔細を明かしておとなしく連れてくるがよかろうと云う温和な意見もあった。しかし一方には又これに反対して、なにを云うにも相手は茶店の女どもである。いくら口止めをして置いても、果たして秘密を守るかどうか頗る不安心である。また後日《ごにち》にねだりがましい事など云いかけられても面倒である。すこしうしろ暗いやり方ではあるが、いっそ不意に引っさらってくる方が無事であろう。何事も御家の外聞にはかえられぬと云う者もあった。結局、後の方の説が勢力を占めて、その役目を云いつけられた武士どもは、身分柄にもあるまじき拐引同様の所行《しょぎょう》をくり返すことになったのである。
 それほど苦心した甲斐があって、その計略は見ごとに成功した。物狂おしい奥方は、替え玉のお蝶を夜も昼もときどき覗《のぞ》きに来て、死んだ姫の魂が再びこの世に呼び戻されたものと思っているらしく、それからは忘れたようにおとなしくなっ
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