上について昨日《さくじつ》もほかの御女中がまいって詳しいお話をいたしました筈。親御も御得心ならば、今夜からすぐにお越し下さるように、わたくしがお迎いにまいりました」
 女は切り口上で云った。お亀はすこしその威に打たれたらしく、唯もじもじしていて、はっきりした挨拶もできなかった。
「今さら御不承知と申されては、わたくしどもの役目が立ちませぬ。まげて御承知くださるように重ねておねがい申します」
「娘はゆうべ帰りまして、それからなんだか気分が悪いとか申して、きょうも一日|臥《ふせ》って居りますので、まだ碌々に相談いたす暇もございませんで……」
 お亀は一寸|遁《のが》れの口上で、なんとか此の場を切り抜けるつもりらしかったが、相手はなかなか承知しなかった。女は嵩《かさ》にかかって又云った。
「いえ、それはなりませぬ。篤《とく》と御相談くださるように、昨夜わざわざ戻してあげましたのに、いま以て何の御相談もないというは、こちらの志を無にしたような致され方、それではわたくしはおめおめ引き取るわけにはまいりませぬ。娘御をここへ呼び出して、わたくしと三《み》つ鼎《がなえ》であらためて御相談いたしましょう。お蝶どのををすぐこれへ」
 凛とした声できめ付けられて、お亀はいよいようろたえていると、女は袱紗《ふくさ》につつんで来た小判のつつみを出して、うす暗い行燈の前へ二つならべた。
「御約束の御手当ては二百両、封のままで唯今お渡し申します。さあ、どうぞ娘御をこれへ」
「は、はい」
「あくまでも御不承知か。お役目首尾よく相勤めませねば、わたくし此の場で自害でもいたさねば相成りませぬ」
 彼女は更に帯のあいだから袋に入れた懐剣のようなものを把《と》り出して見せた。その鋭い瞳《ひとみ》のひかりに射られて、お亀は蒼くなってふるえ出した。掛け合いはもう手詰めになって来た。
「あの女はおまえ識っているか」と、半七は小声でお蝶にきくと、お蝶は無言で首を振った。半七はすこし考えていたが、やがて三畳から台所へ這い出して、水口《みずぐち》からそっと表へぬけた。
 路地のそとは月が明るかった。角から四、五軒さきの質屋の土蔵のまえには、一挺の駕籠が下ろされて、そこには二人の駕籠舁《かごかき》と先刻の武士らしい男が立っていた。半七はそれを見とどけて、今度は表の格子からはいって来た。そうして、黙って女のまえに坐った。
前へ 次へ
全18ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング