方に悪意のないことは能く判っていた。気疲れで奥の三畳にうとうと眠っているお蝶を呼び起させて、半七は彼女から更に詳しい話を聴きとったが、やはり確かな見当は付かなかった。お蝶の話によって考えると、その屋敷はどうも然るべき大名の下屋敷であるらしく思われたが、その場所も方角も知れないので、それがどこの屋敷だか見当が付かなかった。
「今に誰か来るかも知れないから、まあ、待っていて見ようよ」と、半七も腰をおちつけて、そこに居坐っていることにした。
 この頃の日※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]《ひあし》はよほど詰まって、ゆう六ツの鐘を聴かないうちに、狭い家の隅々はもう薄暗くなった。お亀は神酒《みき》徳利や団子や薄《すすき》などを縁側に持ち出してくると、その薄の葉をわたる夕風が身にしみて、帷子《かたびら》一枚の半七は薄ら寒くなってきた。殊にもう夕飯の時分になったので、半七はお亀にたのんで近所から鰻を取って貰った。自分一人で食うわけにも行かないので、お亀とお蝶の母子《おやこ》にも食わせた。
 飯を食ってしまって、半七は楊枝《ようじ》をつかいながら縁先に出ると、狭い路地のかさなり合った庇《ひさし》のあいだから、海のような碧い大空が不規則に劃《しき》られて見えた。月はその空の上にかかっていなかったが、東の方の雲の裾がうす黄色くかがやいているので、今夜の明月が思いやられた。露はいつの間にか降りているらしく、この頃ではもう邪魔物のように庭さきにほうり出されている二鉢の朝顔の枯れた葉が、薄白くきらきらと光っていた。
「みんなも出て拝みなせえ。もうじきお月様があがるぜ」と、半七は声をかけた。
 この途端に溝板を踏む足音がきこえて、一人の男がここの格子のまえに立った。お亀がすぐに出てみると、それは見識らない武士《さむらい》姿であったが、かれはお蝶母子が家にいることを確かめて、唯今お女中が逢いに来られると伝えて行った。
「まあ、おれはいない積りにして置いてくんねえ」と、半七はあわてて草履をつかんで、お蝶と共に奥の三畳にかくれた。そうして襖の隙き間からそっと窺っていると、やがてはいってきたのは三十歳前後のやはり奥勤めらしい女であった。
「初めてお目にかかります」と、女はお亀にむかって丁寧に挨拶した。お亀もおどおどしながら相当の挨拶をしていた。
「早速でございますが、こちらの娘のお蝶どのの身の
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