半七捕物帳
奥女中
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蒲莚《がまござ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)銚子|縮《ちじみ》で眼を拭いていた

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]
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     一

 半月ばかりの避暑旅行を終って、わたしが東京へ帰って来たのは八月のまだ暑い盛りであった。ちっとばかりの土産物を持って半七老人の家をたずねると、老人は湯から今帰ったところだと云って、縁側の蒲莚《がまござ》のうえに大あぐらで団扇をばさばさ遣《つか》っていた。狭い庭には夕方の風が涼しく吹き込んで、隣り家の窓にはきりぎりすの声がきこえた。
「虫の中でもきりぎりすが一番江戸らしいもんですね」と、老人は云った。「そりゃあ値段も廉《やす》いし、虫の仲間では一番下等なものかも知れませんが、松虫や鈴虫より何となく江戸らしい感じのする奴ですよ。往来をあるいていても、どこかの窓や軒できりぎりすの鳴く声をきくと、自然に江戸の夏を思い出しますね。そんなことを云うと、虫屋さんに憎まれるかも知れませんが、松虫や草雲雀《くさひばり》のたぐいは値が高いばかりで、どうも江戸らしくありませんね。当世の詞《ことば》でいうと、最も平民的で、それで江戸らしいのは、きりぎりすに限りますよ」
 老人はしきりに虫の講釈をはじめて、今日《こんにち》では殆ど子供の玩具《おもちゃ》にしかならないような一匹三銭ぐらいの蟋蟀《きりぎりす》を大いに讃美していた。そうして、あなたも虫を飼うならきりぎりすを飼ってくださいと云った。虫の話がすんで風鈴の話が出た。それから今夜は新暦の八月十五夜だという話が出た。
「暦が違いますから八月でもこの通り暑うござんすよ。これが旧暦だと朝晩はぐっと冷えて来るんですがね」
 老人は又むかしのお月見のはなしを始めた。そのうちにこんな話が出て、わたしの手帳に一項の記事をふやした。

 文久二年八月十四日の夕方であった。半七がいつもより早く家《うち》へ帰って、これから夕飯をすませて、近所の無尽《むじん》へちょいと顔出しをしようと思っていると、小さい丸髷に結った四十ばかりの女が苦労ありそうな顔を見せた。

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