》格子のあいだからそれをそっと転がし込んで、自分は土のうえに平蜘蛛《ひらぐも》のように俯伏していた。彼は一生懸命に息を殺していた。
 半七は空家に腰をかけてしばらく待っていたが、権太郎からは何の報告もないので、彼は待ちあぐんでそっと出て行った。
「おい、権太、なんにも当りはねえか」と、半七は小声で訊くと、権太郎は俯伏していた首をあげて、それを左右に振った。半七は失望した。
 霰はまた音をたてて降って来たので、半七はあわてて手拭をかぶって、あられに打たれておとなしく俯伏している権太郎を見るに忍びないので、彼はこっちへ来いと頤《あご》で招くと、権太郎はそっと這い起きて戻って来た。
「稲荷さまのなかでなんにも音がしねえか。がたりともいわねえか」と、半七はまた訊いた。
「むむ、がたりともごそりともいわねえよ。どうもなんにも居ねえらしい」と、権太郎は失望したようにささやいた。二人は元の空家へはいった。
「お前まだ蜜柑を持っているか」
 権太郎は袂から三つばかりの蜜柑を出した。半七はそれを受け取って、自分のうしろの障子を音のしないようにするりとあけた。入口は二畳で、その傍《そば》に三畳ぐらいの女中部屋が続いているらしかった。半七はその二畳に這い上がって、つき当りの襖をあけると、そこには造作の小綺麗な横六畳があって、縁側にむかった障子ばかりが骨も紙もひどく傷《いた》んでいるのが、薄暗いなかにも眼についた。骨はところどころ折れていて、紙も引きめくったように裂けていた。半七はその六畳のまん中へ蜜柑を二つばかり転がし込んだ。それから女中部屋の襖をあけて、そこへも一つ投げ込んだ。入口の障子を元のように閉め切って彼は再び沓脱《くつぬぎ》へ降りた。
「静かにしていろよ」と、彼は権太郎に注意した。
 二人は息をのみ込んで控えていると、外のあられの音はまた止んだ。内では何の物音もきこえないので、権太郎は少し待ちくたびれて来たらしかった。
「ここにも居ねえのかしら」
「静かにしろと云うのに……」
 この途端に、奥の方でがさりという微かなひびきが聞えたので、二人は顔をみあわせた。何者かが障子の破れをくぐって、六畳の間へ這い込んで来るらしく思われた。それは猫のような足音で、畳にざらざらと触れる爪の音がだんだんに近づいて来た。じっと耳をすまして聴いていると、その者は半七の投げこんだ蜜柑をむしゃむしゃ食っているらしかった。
「畜生め」
 半七は笑いながら権太郎に眼くばせして、二人は草履を手に持って一度に障子をあけた。つづいて次の襖を蹴ひらいて、六畳の座敷へばらばら跳り込むと、うす暗いなかには一匹の獣《けもの》がひそんでいた。獣は奇怪な叫び声をあげながら、障子を破って縁側へ逃げ出そうとしたところを、半七はうしろから追い付いてその頭を草履でなぐった。権太郎もつづいて撲り付けた。獣は度を失ったらしく、白い牙をむき出して権太郎に飛びかかって来た。こういう場合には平生《へいぜい》のいたずらが役に立って、彼は物ともしないでその奇怪な獣と取っ組んだ。怪物はおそろしい声をあげて唸った。
「権太、しっかりしろ」
 声をかけて励ましながら、半七は頭にかぶっていた手拭を取って、うしろからその敵の喉に巻きつけた。喉をしめられて怪物もさすがに弱ったらしく、いたずらに手足をもがきながら権太郎にとうとう組み敷かれてしまった。気の利いている権太郎は自分の帯を解いて、すぐに彼をぐるぐる巻きに縛りあげた。そのあいだに半七は縁側の雨戸をこじあけると、陰った日の薄い光りが空家のなかへ流れ込んだ。
「畜生、案の通りだ」
 権太郎に生捕られた怪物は大きな猿であった。この怪物と格闘した形見《かたみ》として、彼は頬や手足に二、三カ所の爪のあとを残された。
「なに、この位、痛かあねえ」と、彼は得意らしく自分の獲物をながめていた。猿は死にもしないで、おそろしい眼を瞋《いか》らせていた。

「これが宮本|無三四《むさし》か何かだと、狒々《ひひ》退治とか云って芝居や講釈に名高くなるんですがね」と、半七老人は笑った。「それから自身番へ引き摺って行くと、みんなもびっくりして町内総出で見物に来ましたよ。なぜわたしが猿公《えてこう》と見当をつけたかと云うんですか。それは半鐘をあらために登った時に、火の見梯子に獣の爪の跡がたくさん残っていたからですよ。どうも猫でもないらしい。こいつは猿公が悪戯《いたずら》をするんじゃないかと、ふいと思い付いたんです。囲い者の傘の上に飛び付いたり、物干のあかい着物を攫って行ったり、どうしても猿公の仕業《しわざ》らしゅうござんすからね。そこで、その猿公がどこに隠れているのか、わたくしは稲荷の社《やしろ》だろうと見当を付けたんですが、それはちっとはずれました。けれども多分最初のうちは社の奥にかくれていて
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