いときから余り邪慳《じゃけん》に責められたせいか、歌女代はどうも病身であったが、仕込みが厳しいだけに芸はよく出来た。容貌《きりょう》も好かった。十六の年から母の代稽古として弟子たちを教えていたが、容貌の好いのが唯一《ゆいいち》の囮《おとり》になって、男弟子もだいぶ入り込むようになった。したがって歌女寿のふところ都合もだんだん好くなって来たが、慾の深い彼女はお定まりの月並や炭銭《すみせん》や畳銭《たたみせん》ぐらいでなかなか満足していられる女ではなかった。彼女はこの若い美しい餌《えさ》で巨大《おおき》な魚《さかな》を釣り寄せようと巧《たく》らんでいた。
その魚は去年の春の潮に乗って寄って来た。それは中国辺の或大名屋敷の留守居役で、歌女代をぜひ自分の持ち物にしたいという註文であった。跡取りの娘であるからそちらへ差し上げるわけには行かないと、歌女寿はわざと焦らすように一旦ことわると、相手はいよいよ乗り出して来て、いわゆる囲い者として毎月相当の手当てをやる。まだそのほかに話がまとまり次第、一種の支度金のような意味で当金《とうきん》百両出そうという条件まで付けて来た。金百両――この時代においては莫大の金であるから、歌女寿も二つ返事で承知した。これでお前もわたしも浮かみ上がれると、彼女は顔をくずして歌女代にささやいた。
「阿母《おっか》さん、こればかりは堪忍してください」と、歌女代は泣いてことわった。何をいうにも自分は身体が虚弱《ひよわ》い。大勢の弟子を取って毎日毎晩踊りつづけているのさえも、この頃では堪えられない位であるのに、その上に旦那取りなどさせられては、とても我慢も辛抱も出来ない。そんな卑しい辛い思いをしないでも、別に生活《くらし》に困るというわけでもない。自分は倒れるまで働いて、きっと阿母さんに不自由はさせまい。囲い者の相談だけはどうぞ断わってくれと、彼女は母にすがって頼んだ。勿論、この訴えを素直に受けるような歌女寿ではなかったが、平生はおとなしい歌女代もこの問題については飽くまで強情を張って、嚇《おど》しても賺《すか》してもどうしても得心しないので、歌女寿も持て余して唯|苛々《いらいら》しているうちに、その夏の梅雨の頃から歌女代の健康は衰えて、もはや毎日の稽古にも堪えられないで、三日に一度ぐらいは枕に親しむようになった。こっちの返事がいつまでも渋っているので、旦那の方でもさすがに根負けがしたらしく、いつとは無しにその相談も立ち消えになった。巨大な魚は逃げてしまった。
歌女寿は歯ぎしりをして口惜しがった。折角の旦那を取り逃がしたのも、歌女代のわがまま強情からであると、歌女寿は無暗にかれを憎んだ。倒れるまで働くと云った歌女代の言質《ことばじち》を取って、決してべんべんと寝そべっていることはならない、仆《たお》れるまで働いてくれと、真っ蒼な顔をして寝ている歌女代を無理に引き摺り起して、朝から晩まで弟子たちの稽古をつづけさせた。勿論、医師にも診せてやろうともしなかった。お仲という若い地弾きが歌女代に同情して、そっと買薬などしてやっていたが、その年の土用の激しい暑気がいよいよ歌女代の弱った身体をしいたげて、彼女はもう骸骨のように痩せ衰えてしまった。それでも歌女寿は意地悪く稽古を休ませなかったので、彼女は殆ど半死半生のおぼつかない足もとで稽古台の上に毎日立ちつづけていた、お仲も肚《はら》の仲ではらはらしていたが、大《おお》師匠の怖い目に睨まれて、彼女はどうすることも出来なかった。
もう二、三日で盆休みが来るという七月九日の午すぎに、歌女代はとうとう精も根も尽きはてて、山姥《やまんば》を踊りながら舞台の上にがっくり倒れた。邪慳な養母にさいなまれつづけて、若い美しい師匠は十八の初秋にこの世と別れを告げた。
その新盆《にいぼん》のゆうべには、白い切子燈籠の長い尾が、吹くともない冷たい風にゆらゆらとなびいて、この薄暗い灯のかげに若い師匠のしょんぼりと迷っている姿を、お仲はまざまざと見たと近所のものに顫《ふる》えながらささやいた。噂はそれからそれへと伝えられて、ふだんから歌女寿を快く思っていない人達は、更に尾鰭を添えていろいろのことを云い出した。歌女寿の家《うち》では夜がふけると、暗い稽古舞台の上で誰ともなしにとんとん足拍子を踏む音が微かに聞えるという薄気味の悪い噂が立った。歌女寿の家へは幽霊が出るということに決まってしまった。お化け師匠のおそろしい名が町内にひろまって、弟子たちもだんだんに寄り付かなくなった。お仲も暇を取って立ち去った。
そのお化け師匠が今死んだのである。
「どうして死んだ。あいつのこったから、悪いものでも食って中《あた》ったのか」と、半七は嘲《あざけ》るようにささやいた。
「どうして、そんなんじゃありません」と、源次は
前へ
次へ
全9ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング