たり又|出遇《であ》ったんです。すると、相談があるから是非寄ってくれというんで、今度は逃げることもできないで、とうとう師匠の家まで一緒に行きました。格子をがらりと明けてはいると、長火鉢の前に一人の男が坐っているんです。師匠よりは七八歳《ななやっつ》も若い、四十ぐらいの色のあさ黒い男でした。その男の顔をみると師匠はひどくびっくりしたように、しばらく黙って突っ立っていました。なにしろ、客の来ているのは私に取って勿怪《もっけ》の幸いで、それをしおに早々に帰って来ました」
「ふうむ。そんなことがあったのか」と、半七は腹のなかでにっこり笑った。「一体その男は何者だか、おまえさんはちっとも知らねえか」
「知りません。女中のお村の話によると、なんでも師匠と喧嘩をして帰ったそうです」
その以上のことは弥三郎もまったく知らないらしいので、半七もここで切り上げて彼と別れた。
「きょうのことは、誰にも当分沙汰なしにして置いてくんねえよ」
四
寺の門を出ると、半七は松吉に逢った。
「親分の家《うち》へ今行ったら、ここの寺へ来ていると云うから、すぐに引っ返して来ました。きのうもあれから万年町の方をすっかり猟《あさ》ってみたが、どこにもそんな御符売りらしい奴は泊っていねえんです。それからそれと探し歩いて、ようよう今朝になって本所の安泊りに一人いるのを見付けたんですが、どうしましょう」
「幾つぐらいの奴だ」
「さあ、二十七八でしょうかね。宿の亭主の話じゃあ、四、五日前から暑さにあたって、商売にも出ずにごろごろしているそうです」
弥三郎から訊いた男とは年頃もまるで違っているので、半七は失望した。殊に、四、五日前から宿に寝ていると云うのでは、どうにも詮議のしようがなかった。
「そいつ一人ぎりか、ほかに連れはねえのか」
「もう一人いるそうですが、そいつは今朝早くから山の手の方に商売に出たそうです。なんでもそいつは四十ぐらいで……」
半分聞かないうちに、半七は手を拍《う》った。
「よし。おれもあとから行くから、おめえは先へ行って、そいつの帰るのを待っていろ」
松吉を先にやって、半七はまた歌女寿の家へ急いでゆくと、下女のお村は近所の人達と一緒に焼き場へ廻ったというので、家には識《し》らない女が二人坐っていた。歌女寿と喧嘩をして帰ったという男について、お村から詳しいことを訊き出そうと思って、半七はしばらくそこにいたが、お村はなかなか帰って来なかった。待ちくたびれて源次の家へゆくと、これも送葬《とむらい》の帰りにどこへか廻ったとみえて、まだ帰って来ないと女房が気の毒そうに云った。女房を相手に二つ三つ世間話をしているうちに、やがて上野の鐘が四ツ(午前十時)を撞《つ》いた。
「御符売りも山の手へ登ったんじゃあ、どうせ午すぎでなけりゃあ帰るめえ」
半七はその間に二、三軒用達をして来ようと思って、早々に源次の家を出た。それから駈け足で二、三軒まわって途中で午飯《ひるめし》を食って、御厩河岸《おんまやがし》の渡《わたし》に来たのは、八ツ(午後二時)少し前であった。ここで本所へ渡る船を待っていると、一と足おくれてこの渡へ来たのは菅笠をかぶった四十恰好の色の黒い男で、手甲脚絆の草鞋《わらじ》がけ、頸に小さい箱をかけていた。それが池鯉鮒《ちりゅう》の御符売りであることは半七にもすぐに覚られたので、物に馴れている彼も思わず胸をおどらせた。松吉から先刻訊いたのは此奴に相違ない。年頃も弥三郎から訊いた男に符合している。しかし確かな証拠もないのに突然に御用の声をかけるわけにも行かない。ともかくも宿へ帰るのを突き留めた上でなんとか詮議のしようもあろうと思って、半七は何げない風をして時々に彼の笠の内に注意の眼を送っていると、御符売りの男もそれと覚ったらしく、こっちの眼を避けるように、わざと柳の下に隠れて、胸を少しひろげて扇をつかっていた。
うすく陰った空は午《ひる》から少しずつ剥げて来て、駒形《こまがた》堂の屋根も明るくなった。そよりとも風のない日で、秋の暑さは大川の水にも残っているらしく、向う河岸《がし》から漕ぎもどして来る渡し船にも、白い扇や手拭が乗合のひたいにかざされて、女の児の絵日傘が紅い影を船端の波にゆらゆらと浮かべていた。
その一と群れがこっちの岸へ着いて、ぞろぞろ上がってゆくのを待ち兼ねたように、御符売りは入れ替って乗った。半七もつづいて飛び乗った。
「おうい。出るよう」
船頭は大きい声で呼ぶと、小児《こども》の手を曳《ひ》いたおかみさんや、寺参りらしいお婆さんや、中元の砂糖袋をさげた小僧や、五、六人の男女がおくれ馳せにどやどやと駈け付けて来て、揺れる船縁《ふなべり》からだんだんに乗り込んだ。やがて漕ぎ出したときに、御符売りは艫《とも》の方に乗り込んだ
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