師匠のかたきを取るために、お前さんが大師匠をどうかしたんじゃねえかと、世間で専ら評判をしている。それが上《かみ》の耳にもはいっている」
「飛んでもねえこと……。わたくしがどうしてそんな……」と、弥三郎は口唇《くちびる》をふるわせながら慌てて打ち消そうとした。
「いや、おまえさんがしたんでねえことは私は知っている。わたしは神田の半七という御用聞きだ。世間の評判をあてにして罪科《つみとが》もねえ者を無暗にどうするの斯《こ》うするのと、そんな無慈悲なことはしたくねえ。その代りに何もかも正直に云ってくれなけりゃあ困る。いいかい、判ったかね。そこで今の一件だが、お前さん、まったく若い師匠とどうかしていたんだろうね。え、嘘をいっちゃあいけねえ。この墓の中には若い師匠がはいっているんだぜ。その前で嘘をつかれた義理じゃああるめえ」と、半七は墓を指して嚇《おど》すように云った。
花立ての花もきょうはもう萎《しお》れて、桔梗も女郎花も乾いた葉を垂れていた。弥三郎はじっとそれを見つめているうちに、彼の睫毛《まつげ》はいつかうるんで来た。
「親分。なにもかも正直に申し上げます、実はおととしの夏頃から師匠のところへ毎晩稽古にいくうちに、若い師匠と……。けれども、親分、正直のところ、一度も悪いことはした覚えはありません。師匠はあの通りの病身ですし、わたくしもこの通り気の弱い方ですから、大師匠の眼を忍んで唯まあ打ち解けて話をするぐらいのことで……。それでもたった一度、去年の春でした。若い師匠と一緒にここに墓参りに来たことがありました。その時に師匠は、どうしても家にいられないことがあるから、どこへか連れて行ってくれと云うんです。今思えば、いっそその時に思い切ってどうかすればよかったんですが、わたくしも両親はあり、弟や妹はあり、それを打捨《うっちゃ》って駈け落ちをするわけにも行かないので、ともかくも師匠をなだめて無事に帰したんですが、それから間もなく師匠はどっと寝付くようになって、とうとうあんなことになってしまいました。それを考えると、わたくしは何だか師匠を見殺しにしたようで、明けても暮れても気が咎めてなりませんから、毎月その詫びながら墓参りには欠かさずに来るようにしています。唯それだけのことで、今度の大師匠のことには何にもかかり合いはありません。大師匠が蛇に殺されたと訊いた時には、わたくしは思わずぞっ[#「ぞっ」に傍点]としました。なにしろ、それが丁度若い師匠の一周忌というんですから」
半七が想像した通り、若い師匠と若い経師職とのあいだには、こうした悲しい恋物語が潜んでいたのであった。彼の懺悔に偽りのないことは、若い男の眼から意気地なく流れる涙の色を見てもうなずかれた。
「若い師匠が死んでから、おまえさんはもう師匠の家へはちっとも出這入りをしなかったかね」
「へえ」と、弥三郎は口ごもるように云った。
「隠しちゃあいけねえ。大事な場合だ。え、ほんとうに出這入りをしなかったのか」
「それが実におかしいんです」
「どうおかしいんだ。まっすぐに云いねえ」
半七に睨まれて、弥三郎はなにか頻りにもじもじしていたが、とうとう思い切ってこんなことを白状した。若い師匠が死んでひと月ばかり経つと、歌女寿が経師職の店へぶらりと来て、店に仕事をしている弥三郎を表へ呼び出した。娘の三十五日の配り物や何かについて少し相談したいことがあるから、今夜ちょいと家《うち》へ来てくれと云うのであった。その晩出てゆくと、配り物の話は付けたりで、師匠は弥三郎にむかって自分の家の婿になってくれないかと突然云い出した。頼りにしていた娘に別れて何分寂しくてならないから、お前さんを見込んで頼む、どうぞ養子になってくれと云った。
思いも付かない話でもあり、且は自分は惣領の跡取りであるので、弥三郎は無論にことわって帰った。しかし師匠の方でなかなか諦めないらしく、その後も執念ぶかく付きまとって来て、何かと名をつけて無理に彼を呼び出そうとした。一度は途中でつかまって、否応なしに湯島辺のある茶屋へ引っ張って行かれた。下戸の弥三郎は酒を強《し》いられた。歌女寿もだんだんに酔いがまわって来て、婿になれというのか亭主になれというのか、訳の判らないようなことを媚《なまめ》かしい素振りで云い出したので、気の小さい弥三郎は顫えるほどに驚いて、一生懸命に振り切って逃げて帰った。
「その茶屋へ引っ張られて行ったのは何日《いつ》頃だね」と、半七は笑いながら訊いた。
「ことしの正月です。それから三月にも浅草で出っくわして、無理にどっかへ引っ張られようとしたのを、それもようよう振り切って逃げました。それから五月の末でしたろう。日が暮れてから近所の湯へ行くと、その帰りにわたくしが男湯から出ると、師匠もちょうど女湯から出る、そこでばっ
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