一人の男を急に見付け出したらしく、ほかの乗合をかきわけて彼の胸倉を引っ掴んだ。
「やい、この泥坊。よくもおれが大事の商売道具を盗みやがったな。これ、池鯉鮒《ちりゅう》さまの罰があたるぞ」
 泥坊と人なかで罵《ののし》られた男も、やはり四十前後の男で、紺地の野暮な単物《ひとえもの》を着ていた。彼はほかの乗合の手前、おとなしく黙っていられなかった。
「なに、泥坊……。飛んでもねえことを云うな。おれが何を盗んだ」
「しらばっくれるな。俺はちゃんとてめえの面《つら》を覚えているんだ。いけずうずうしい野郎だ。どうするか見やあがれ」
 御符売りは相手の胸倉を掴んだままで力まかせに幾たびか小突きまわした。男もその手をつかんで捻《ね》じ放そうとした。小さい船はゆれ傾いて女や子供は泣き出した。
「船の中で喧嘩をしちゃあいけねえ。喧嘩なら岸へ着いてからにしておくんなせえ」
 船頭は叱るように制した。ほかの乗合の客も口々になだめたので、御符売りはよんどころなしに手をゆるめた。併しまだそのままに済ませそうもない嶮しい顔色で、相手を屹《きっ》と睨み詰めていた。
 船が本所の河岸《かし》へ着くと、半七はまずひらりと飛び上がった。つづいて彼《か》の男が上がった。そのあとを追うように御符売りも上がって来て、再び彼の袖を掴もうとするのを、男はあわてて振り切って逃げ出そうとしたが、その片腕はもう半七に押えられていた。
「おまえさん、何をするんです」と、男は振り放そうと身をもがいた。
「神妙にしろ、御用だ」
 半七の声は鋭くひびいた。男は不意に魂をぬき取られたように、ただ棒立ちに突っ立ったままであった。勢い込んで追おうとした御符売りも思わず立ちすくんでしまった。
「おまえはこいつになにを奪《と》られた。黒い蛇だろう」と、半七は御符売りに訊いた。
「はい。左様でございます」
「こいつと一緒に番屋まで来てくれ」
 二人を引っ張って、半七は近所の自身番へ行った。浅蜊《あさり》の殻《から》を店の前の泥に敷いていた自身番の老爺《おやじ》は、かかえていた笊《ざる》をほうり出して、半七らを内へ入れた。
「おい、素直に何もかも云っちまえ」と、半七は彼の男を睨むように視た。「てめえは御成道の横町のお化け師匠の情夫《いろ》か、亭主か。なにしろ久し振りでたずねて行くと、師匠は若けえ男なんぞを引っ張って帰って来て、手前に逢って
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