めえは家へ帰って、その武士《さむれえ》がきょう来るかどうだか気をつけろ。おれも支度をしてあとから行く」
熊蔵を帰して、半七はすぐに朝飯を食った。それから身支度をして愛宕下へ出かけて行ったが、その途中に少し寄り道をする用があるので、日蔭町の方へ廻ってゆくと、会津屋という刀屋の前に一人の若い武士が腰を掛けて、なにか番頭と掛け合っているらしかった。ふと見ると、その武士はきのう湯屋の二階で初めて出逢った怪しい箱の持ち主であった。
半七は立ち停まってじっと視ていると、武士はやがて番頭から金をうけ取って、早々にこの店を出て行った。すぐにその後を尾《つ》けようかとも思ったが、なにか手がかりを探り出すこともあろうと、彼は引っ返して会津屋の店へはいった。
「お早うございます」
「神田の親分、お早うございます」
番頭は半七の顔を識っていた。
「春になってから馬鹿に冷えますね」と、半七は店に腰をかけた。「つかねえことを訊き申すようだが、今ここを出た武家はお馴染《なじみ》の人ですかえ」
「いいえ、初めて見えた方です。こんなものを持ち歩いて、そこらで二、三軒ことわられたそうですが、とうとう私の家へ押し付けて行ってしまったんですよ」と、番頭は苦笑いをしていた。その傍には何か油紙に包んだ硬《こわ》ばった物が横たえてあった。
「何ですえ、それは……」
「こんなもので……」
油紙をあけると、そのなかから薄黒い泥まぶれの魚のようなものが現われた。それは刀の柄《つか》や鞘を巻く泥鮫であると番頭が説明した。
「鮫の皮ですか。こうして見ると、随分きたないもんですね」
「まだ仕上げの済まない泥鮫ですからね」と、番頭はそのきたない鮫の皮を打返して見せた。
「御承知の通り、この鮫の皮はたいてい異国の遠い島から来るんですが、みんな泥だらけのまま送って来て、こっちで洗ったり磨いたりして初めてまっ白な綺麗なものになるんですが、その仕上げがなかなか面倒でしてね。それに迂濶《うっかり》するとひどい損をします。なにしろこの通り泥だらけで来るんですから、すっかり仕上げて見ないうちは、傷があるか血暈《ちじみ》があるか能く判りません。傷はまあ好いんですが、血暈という奴がまことに困るんです。なんでも鮫を突き殺した時に、その生血《なまち》が皮に沁み着くんだそうですが、これが幾ら洗っても磨いても脱《ぬ》けないので困るんです。まっ
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