が死んだあとでは、せめて御線香の一本も供えておくれ。それが一生のお願いだ。ここに給金の溜めたのが二両一分ある。これはみんなお前にあずけて行くから」
 声はいよいよ陰って低くなったので、それから後はよく判らなかったが、お冬のすすり泣きをする声もおりおりに聞えた。石町《こくちょう》の八ツ(午後二時)の鐘が響いた。それに驚かされたように、障子の内では人の起ちあがる気配がしたので、半七は再び南天の繁みに隠れると、縁をふむ足音が力なくきこえて、和吉は縁づたいにしょんぼりと影のように出て行った。泥足をはたいて半七は縁に上がった。
 それから再び店へ行ってみると、和吉の姿はここに見えなかった。帳場の番頭を相手にしばらく世間話をしていたが、和吉はやはり出て来なかった。
「時に和吉さんという番頭はさっきから見えませんね」と、半七は空とぼけて訊いた。
「さあ、どこへ行きましたかしら」と、大番頭も首をかしげていた。「使に出たはずもないんですが……。なんぞ御用ですか」
「いえ、なに。だが、外へでも出た様子だかどうだか、ちょいと見て来てくれませんか」
 小僧は奥へはいったが、やがて又出て来て、和吉は奥にも台所に
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