です」
「その時に一と騒動持ち上がりましてね。その時には私も少し頭を痛めましたよ。あれは確か安政|午《うま》年の十二月、歳の暮にしては暖い晩でした。和泉屋というのは大きな鉄物屋《かなものや》で、店は具足町《ぐそくちょう》にありました。家中《うちじゅう》が芝居気ちがいでしてね、とうとう大変な騒ぎをおっ始めてしまったんです。え、その話をしろと云うんですか。じゃあ、又いつもの手柄話を始めますから、まあ聴いてください」
 安政五年の暮は案外にあたたかい日が四、五日つづいた。半七は朝飯を済ませて、それから八丁堀の旦那(同心)方のところへ歳暮にでも廻ろうかと思っていると、妹のお粂《くめ》が台所の方から忙がしそうにはいって来た。お粂は母のお民と明神下に世帯を持って、常磐津の師匠をしているのであった。
「姉さん、お早うございます。兄さんはもう起きていて……」
 女中と一緒に台所で働いていた女房のお仙はにっこり[#「にっこり」に傍点]しながら振り向いた。
「あら、お粂ちゃん、お上がんなさい。大変に早く、どうしたの」
「すこし兄さんに頼みたいことがあって……」と、お粂はうしろをちょっと見返った。「さあ、おはいんなさいよ」
 お粂の蔭にはまだ一人の女がしょんぼりと立っていた。女は三十七八の粋な大年増《おおどしま》で、お粂と同じ商売の人であるらしいことはお仙にもすぐに覚《さと》られた。
「あの、お前さん、どうぞこちらへ」
 たすきをはずして会釈《えしゃく》をすると、女はおずおずはいって来て丁寧に会釈した。
「これはおかみさんでございますか。わたくしは下谷に居ります文字清と申します者で、こちらの文字房さんには毎度お世話になって居ります」
「いいえ、どう致しまして。お粂こそ年が行きませんから、さぞ御厄介になりましょう」
 この間にお粂は奥へはいって又出て来た。文字清という女は彼女に案内されて、神経の尖《とが》ったらしい蒼ざめた顔を半七のまえに出した。文字清はこめかみに頭痛膏を貼って、その眼もすこし血走っていた。
「兄さん。早速ですが、この文字清さんがお前さんに折り入って頼みたいことがあると云うんですがね」
 お粂は仔細ありそうに、この蒼ざめた女を紹介《ひきあわ》した。
「むむ。そうか」と、半七は女の方に向き直った。「もし、おまえさん。どんな御用だか知りませんが、私に出来そうなことだかどうだか、
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