ないから、御用聞きとか目明《めあか》しとかいうんですが、世間では一般に岡っ引といっていました。で、与力には同心が四、五人ぐらいずつ付いている、同心の下には岡っ引が二、三人付いている、その岡っ引の下には又四、五人の手先が付いているという順序で、岡っ引も少し好い顔になると、一人で七、八人|乃至《ないし》十人ぐらいの手先を使っていました。町奉行から小者即ち岡っ引に渡してくれる給料は一カ月に一分二朱というのが上の部で、悪いのになると一分ぐらいでした。いくら諸式の廉《やす》い時代でも一カ月に一分や一分二朱じゃあやり切れません。おまけに五人も十人も手先を抱えていて、その手先の給料はどこからも一文だって出るんじゃありませんから、親分の岡っ引が何とか面倒を見てやらなけりゃあならない。つまり初めから十露盤《そろばん》が取れないような無理な仕組みに出来あがっているんですから、自然そこにいろいろの弊害が起って来て、岡っ引とか手先とかいうと、とかく世間から蝮《まむし》扱いにされるようなことになってしまったんです。しかし大抵の岡っ引は何か別に商売をやっていました。女房の名前で湯屋をやったり小料理をやったりしてい
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