七はしばらく舞台を見つめていたが、やがて又ここを出て向う両国へ渡った。
駒止《こまとめ》橋の獣肉屋《ももんじいや》に近い路地のなかに、金次の家のあることを探しあてて、半七は格子の外から二、三度声をかけたが、中では返事をする者もなかった。よんどころなしに隣りの家へ行って訊くと、金次は家を明けっ放しにして近所の銭湯《せんとう》へ行ったらしいとのことであった。
「わたしは山の手からわざわざ訪ねて来た者ですが、そんなら帰るまで入口に待っています」
隣りのおかみさんに一応ことわって、半七は格子の中へはいった。上がり框《かまち》に腰をかけて煙草を一服すっているうちに、かれはふと思い付いて、そっと入口の障子を細目にあけた。内は六畳と四畳半の二間で、入口の六畳には長火鉢が据えてあった。次の四畳半には炬燵《こたつ》が切ってあるらしく、掛け蒲団[#「蒲団」は底本では「薄団」]の紅い裾がぞんざいに閉めた襖の間からこぼれ出していた。
半七は上がり框から少し伸びあがって窺うと、四畳半の壁には黄八丈の女物が掛かっているらしかった。彼は草履をぬいでそっと内へ這《は》い込んだ。四畳半の襖の間からよく視ると、壁にかかっている女の着物は確かに黄八丈で、袖のあたりがまだ湿《ぬ》れているらしいのは、おそらく血の痕を洗って此処にほしてあるものと想像された。半七はうなずいて元の入口に返った。
その途端に溝板《どぶいた》を踏むあしおとが近づいて、隣りのおかみさんに挨拶する男の声がきこえた。
「留守に誰か来ている。ああ、そうですか」
金次が帰って来たなと思ううちに、格子ががらりとあいて、半七とおなじ年頃の若い小粋な男がぬれ手拭をさげてはいって来た。金次はこのごろ小|博奕《ばくち》などを打ち覚えて、ぶらぶら遊んでいる男で、半七とはまんざら識らない顔でもなかった。
「やあ、神田の大哥《あにい》ですか。お珍らしゅうございますね。まあお上がんなさい」
相手がただの人と違うので、金次は愛想よく半七を招じ入れて長火鉢の前に坐らせた。そうして、時候の挨拶などをしている間にも、なんとなく落ち着かない彼の素振りが半七の眼にはありありと読まれた。
「おい、金次。俺あ初めにおめえにあやまって置くことがあるんだ」
「なんですね、大哥。改まってそんなことを……」
「いや、そうでねえ。いくら俺が御用を勤める身の上でも、ひとの家へ留守に上がり込んで、奥を覗いたのは悪かった。どうかまあ、堪忍してくんねえ」
火鉢に炭をついでいた金次はたちまち顔色を変えて、唖《おし》のように黙ってしまった。彼の手に持っている火箸は、かちかちと鳴るほどにふるえた。
「あの黄八丈は小柳のかい。いくら芸人でもひどく派手な柄を着るじゃあねえか。尤《もっと》もおめえのような若い亭主をもっていちゃあ、女はよっぽど若作りにしにゃあなるめえが……。ははははは。おい、金次、なぜ黙っているんだ。愛嬌のねえ野郎だな。受け賃に何かおごって、小柳の惚気《のろけ》でも聞かせねえか。おい、おい、なんとか返事をしろ。おめえも年上の女に可愛がられて、なにから何まで世話になっている以上は、たとい自分の気に済まねえことでも、女がこうと云やあ、よんどころなしに片棒かつぐというような苦しい破目《はめ》がねえとも限らねえ。そりゃあ俺も万々察しているから、出来るだけのお慈悲は願ってやる。どうだ、何もかも正直に云ってしまえ」
くちびるまで真っ蒼になってふるえていた金次は、圧《お》し潰《つぶ》されたように畳に手を突いた。
「大哥《あにい》、なにもかも申し上げます」
「神妙によく云った。あの黄八丈は菊村の娘のだろうな。てめえ一体あの娘をどこから連れて来た」
「わたしが連れて来たんじゃないんです」と、金次は哀れみを乞うような悲しい眼をして、相手の顔をそっと見上げた。「実はさきおとといの午《ひる》まえに、小柳と二人で浅草へ遊びに行ったんです。酔うとあいつの癖で、きょうはもう商売を休むというのを、無理になだめて帰ろうとしても、あいつがなかなか承知しないんです。もっともあんな派手な稼業はしていても、銭遣いがあらいのと、私がこのごろ景気が悪いんで、方々に無理な借金はできる。この歳の暮は大御難《おおごなん》で、あいつも少し自棄《やけ》になっているようですから、仕方なしにお守《もり》をしながら午過ぎまで奥山あたりをうろついていると、或る茶屋から若い番頭が出てくる。つづいて小綺麗な娘が出て来ました。それを小柳が見て、あれは日本橋の菊村の娘だ。おとなしいような顔をしていながら、こんなところで番頭と出会いをしていやあがる。あいつを一番食い物にしてやろうと……」
「小柳はどうして菊村の娘ということを知っていたんだ」と、半七は喙《くち》をいれた。
「そりゃあ時々に紅や白粉を買いに行く
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