の竹にも損所はなかった。
「ずいぶん高い塀ですね」
「はい、ゆうべもお役人衆が御覧になって、この高い塀を乗り越して来るのは容易でない。と云って、梯子《はしご》をかけた様子もなし、松を伝って来たらしくも思われない。これは庭口から忍び込んだのではあるまいと仰しゃいました。併しどこからはいったにしましても、出る時はこの庭口から出たに相違ないように思われますが、木戸の錠《じょう》は内から固くおろしたままになっていますので、何処をどうして出て行ったかさっぱり判りません」と、重蔵は陰《くも》った眼をいよいよ陰らせて、無意味にそこらを見廻していた。
「左様さ。忍び返しにも疵をつけず、松の枝にもさわらずに、この高塀を乗り越すというのは生優《なまやさ》しいことじゃあねえ」
 どう考えても、これは町家の娘などに出来そうな芸ではなかった。曲者はよほど経験に富んだ奴に相違ないと半七は鑑定した。併しその場へ駈けつけた三人の女は、たしかにお菊のうしろ姿を見たという。それには何かの錯誤《あやまり》がなければならないと彼は又かんがえた。
 彼は更に念のために、庭下駄を穿《は》いて狭い庭の隅々を見まわると、庭の東の隅には大きい石燈籠が立っていた。よほど時代が経っていると見えて、笠も台石も蒼黒い苔《こけ》のころもに隙き間なく包まれていた。一種の湿気《しっけ》を帯びた苔の匂いが、この老舗《しにせ》の古い歴史を語るようにも見えた。
「好い石燈籠だ。近頃にこれをいじりましたか」と、半七は何げなく訊いた。
「いいえ、昔から誰も手を着けたことはありません。こんなに見事に苔が付いているから、滅多《めった》にさわっちゃいけないと、お内儀《かみ》さんからもやかましく云われていますので……」
「そうですか」
 滅多にさわることを禁じられているという古い石燈籠の笠の上に、人の足あとが微かに残っていることを、半七はふと見つけ出したのであった。あつい青苔の表は小さい爪先の跡だけ軽く踏みにじられていた。

     三

 苔に残っている爪先の跡はちいさかった。男ならば少年でなければならない。半七はどうも女の足跡らしいと認めた。この曲者はよほど経験に富んだ奴と想像していた半七の鑑定は外《はず》れたらしい。女とすればやはりお菊であろうか。たとい石燈籠を足がかりにしても、町育ちの若い娘がこの高塀を自由自在に昇り降りすることは、とても出来そうには思われなかった。
 半七はなにを考えたか、すぐに菊村の店を出て、現代の浅草公園第六区を更に不秩序に、更に幾倍も混雑させたような両国の広小路に向った。
 もうかれこれ午《ひる》頃で、広小路の芝居や寄席も、向う両国の見世物小屋も、これからそろそろ囃《はや》し立てようとする時刻であった。むしろを垂れた小屋のまえには、弱々しい冬の日が塵埃《ほこり》にまみれた絵看板を白っぽく照らして、色のさめた幟《のぼり》が寒い川風にふるえていた。列《なら》び茶屋の門《かど》の柳が骨ばかりに痩せているのも、今年の冬が日ごとに暮れてゆく暗い霜枯れの心持を見せていた。それでも場所柄だけに、どこからか寄せて来る人の波は次第に大きくなって来るらしい。その混雑の中をくぐりぬけて、半七は列び茶屋の一軒にはいった。
「どうだい。相変らず繁昌かね」
「親分、いらっしゃい」と、色の白い娘がすぐに茶を汲《く》んで来た。
「おい、姐さん。早速だが少し聞きてえことがあるんだ。あの小屋に出ている春風|小柳《こりゅう》という女の軽業師《かるわざし》、あいつの亭主は何といったっけね」
「ほほほほほ。あの人はまだ亭主持ちじゃありませんわ」
「亭主でも情夫《いろ》でも兄弟でも構わねえ。あの女に付いている男は誰だっけね」
「金さんのこってすか」と、娘は笑いながら云った。
「そう、そう。金次といったっけ。あいつの家は向う両国だね。小柳も一緒にいるんだろう」
「ほほ、どうですか」
「金次は相変らず遊んでいるだろう」
「なんでも元は大きい呉服屋に奉公していたんだそうですが、小柳さんのところへ反物を持って行ったのが縁になって……。小柳さんよりずっと年の若い、おとなしそうな人ですよ」
「ありがてえ。それだけ判りゃあ好いんだ」
 半七はそこを出て、すぐそばの見世物小屋にはいった。この小屋は軽業師の一座で、舞台では春風小柳という女が綱渡りや宙乗りのきわどい曲芸を演じていた。小柳は白い仮面《めん》をかぶったような厚化粧をして、せいぜい若々しく見せているが、ほんとうの年齢《とし》はもう三十に近いかも知れない。墨で描いたらしい濃い眉と、紅を眼縁《まぶた》にぼかしたらしい美しい眼とを絶えず働かせながら、演技中にも多数の見物にむかって頻りに卑しい媚《こび》を売っている。それがたまらなく面白いもののように、見物は口をあいてみとれていた。半
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