しい様子もないんです。まだ不思議なことは、初めにはいって来た格子のなかに、お菊さんの下駄が脱いだままになって残っているじゃありませんか。今度は跣足《はだし》で出て行ったんでしょうか。それが第一わかりませんわ」
「お菊さんはその時にどんな服装《なり》をしていたね」と、半七はかんがえながら訊いた。
「おとといこの家を出たときの通りでした。黄八丈《きはちじょう》の着物をきて藤色の頭巾《ずきん》をかぶって……」
白子屋のお熊が引廻しの馬の上に黄八丈のあわれな姿をさらしてこのかた、若い娘の黄八丈は一時まったくすたれたが、このごろは又だんだんはやり出して、出世前のむすめも芝居で見るお駒を真似るのがちらほらと眼について来た。襟付の黄八丈に緋鹿子《ひかのこ》の帯をしめた可愛らしい下町《したまち》の娘すがたを、半七は頭のなかに描き出した。
「お菊さんは家を出るときには頭巾をかぶっていたのかね」
「ええ、藤色|縮緬《ちりめん》の……」
この返事は半七を少し失望させた。それから何か紛失物でもあったのかと訊くと、お竹は別にそんなことも無いようだと云った。なにしろ、ほんの僅《わず》かの間で、おかみさんが奥の八畳の居間に坐っていると、襖が細目に明いたらしいので、何ごころなく振り向くと、かの黄八丈の綿入れに藤色の頭巾をかぶった娘の姿がちらりと見えた。驚きと喜びとで思わず声をかけると、襖はふたたび音もなしに閉じられた。娘はどこかへ消えてしまったのである。もしや何処かで非業《ひごう》の最期《さいご》を遂げて、その魂が自分の生まれた家へ迷って帰ったのかとも思われるが、彼女は確かに格子をあけてはいって来た。しかも生きている者の証拠として、泥の付いた下駄を格子のなかへ遺《のこ》して行った。
「一昨日《おととい》浅草へ行った時に、娘はどこかで清さんに逢やあしなかったか」と、半七はまた訊いた。
「いいえ」
「隠しちゃあいけねえ。おめえの顔にちゃんと書いてある。娘と番頭は前から打ち合わせがしてあって、奥山の茶屋か何かで逢ったろう。どうだ」
お竹は隠し切れないでとうとう白状した。お菊は若い番頭の清次郎と疾《と》うから情交《わけ》があって、ときどき外で忍び逢っている。おとといの観音詣りも無論そのためで、待ち合わせていた清次郎と一緒にお菊は奥山の或る茶屋へはいった。取り持ち役のお竹はその場をはずして、観音の境内
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