暗示をも半七に与えてくれなかった。
帰るときに半七はお竹を格子の外へ呼び出してささやいた。
「お竹どん。おめえはお菊さんのお供をして行った人間だから、今度の一件にはどうしても係り合いは逃がれねえぜ。内そとによく気をつけて、なにか心当りのことがあったら、きっとわっしに知らしてくんねえ。いいかえ。隠すと為にならねえぜ」
年の若いお竹は灰のような顔色をしてふるえていた。その嚇しが利いたとみえて、半七があくる朝ふたたび出直してゆくと、格子の前を寒そうに掃いていたお竹は待ち兼ねたように駈けて来た。
「あのね、半七さん。お菊さんがゆうべ帰って来たんですよ」
「帰って来た。そりゃあよかった」
「ところが、又すぐに何処へか姿を隠してしまったんですよ」
「そりゃあ変だね」
「変ですとも。……そうして、それきり又見えなくなってしまったんですもの」
「帰って来たのを誰も知らなかったのかね」
「いいえ、わたしも知っていますし、おかみさんも確かに見たんですけれども、それが又いつの間にか……」
聴く人よりも話す人の方が、いかにも腑に落ちないような顔をしていた。
二
「きのうの夕方、石町《こくちょう》の暮れ六ツが丁度きこえる頃でしたろう」と、お竹はなにか怖い物でも見たように声をひそめて話した。「この格子ががらりと明いたと思うと、お菊さんが黙って、すうっとはいって来たんですよ。ほかの女中達はみんな台所でお夜食の支度をしている最中でしたから、そこにいたのはわたしだけでした。わたしが『お菊さん』と思わず声をかけると、お菊さんはこっちをちょいと振り向いたばかりで、奥の居間の方へずんずん行ってしまいました。そのうちに奥で『おや、お菊かえ』というおかみさんの声がしたかと思うと、おかみさんが奥から出て来て『お菊はそこらに居ないか』と訊くんでしょう。わたしが『いいえ、存じません』と云うと、おかみさんは変な顔をして『だって、今そこへ来たじゃあないか。探して御覧』と云う。わたしも、おかみさんと一緒になって家中《うちじゅう》を探して見たんですけれども、お菊さんの影も形も見えないんです。店には番頭さん達もみんないましたし、台所には女中達もいたんですけれども、誰もお菊さんの出はいりを見た者はないと云うんでしょう。庭から出たかと思うんですけれども、木戸は内からちゃんと閉め切ってあるままで、ここから出たら
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