人の伊織に逢つた。半七のことは何にも云はずに、をぢさんは自分ひとりで調べて來たやうな顔をして、草雙紙と坊主の一條を自慢らしく報告した。それを聽いて、小幡の顔色は見る見る蔭った。
お道はすぐに夫の前に呼び出された。新編うす墨草紙を眼の前に突き付けられて、おまへの夢に見る幽靈の正體はこれかと嚴重に吟味された。お道は色を失つて一言もなかつた。
「聞けば淨圓寺の住職は破戒の堕落僧だといふ。貴様も彼に誑されて、なにか不埒を働いてゐるに相違あるまい。眞直に云へ。」
夫に幾ら責められても、お道は決して不埒を働いた覺えはないと泣いて抗辯した。しかし自分にも心得違ひはある。それは重々恐れ入りますと云つて一切の祕密を夫とをぢさんとの前で白状した。
「このお正月に淨圓寺へ御參詣にまゐりますと、和尚様は別間で色々お話のあつた末に、わたくしの顔をつくづく御覽になりまして、頻りに溜息を吐《つ》いておいでになりましたが、やがて低い聲で『あゝ御運の惡い方だ。』と獨り言のやうにおつしやいました。その日はそれでお別れ申しましたが、二月に又お詣りをいたしますと、和尚様はわたくしの顔を見て、又同じやうなことを云つて溜息を吐《つ》いておいでになりますので、わたくしも何だか不安心になつてまゐりまして、『それはどうした譯でございませう。』と怖々うかゞひますと、和尚様は氣の毒さうに、『どうも貴方《あなた》は御相《ごさう》がよろしくない。御亭主を持つてゐられると、今に御命にもかゝはるやうな禍《わざはひ》が來る。出來ることならば獨身におなり遊ばすとよいが、左もないと貴方ばかりでない、お嬢様にも、おそろしい災難が落ちて來るかも知れない。』と諭《さと》すやうに仰しやいました。かう聞いて私もぞつ[#「ぞつ」に傍点]としました。自分は兎《と》もあれ、せめて娘だけでも災難を逃れる工夫《くふう》はございますまいかと押返して伺ひますと、和尚様は『お氣の毒であるが、母子《おやこ》は一體、あなたが禍を避ける工夫をしない限りは、お嬢様も所詮逃れることはできない。』と……。さう云はれた時の……わたくしの心は……御察し下さいまし。」と、お道は聲を立てゝ泣いた。
「今のお前達が聞いたら、一口に迷信とか馬鹿々々しいとか蔑《けな》してしまふだらうが、その頃の人間、殊に女などは皆《み》んなさうしたものであつたよ。」と、をぢさんはこゝで註を入れて、わたしに説明してくれた。
それを聽いてからお道には暗い陰が絆《まつ》はつて離れなかつた。どんな禍《わざはひ》が降りかゝつて來やうとも自分だけは前世の約束とも諦めよう。しかし可愛い娘にまでまきぞへの禍《わざはひ》を着せると云ふことは、母の身として考へることさへも怖ろしかつた。あまりに痛々しかつた。お道にとつては、夫も大切に相違なかつたが、娘は更に可愛かつた。自分の命よりもいとほしかつた。第一に娘を救ひ、あはせて自分の身を全うすることは、飽きも飽かれもしない夫の家を去るよりほかにないと思つた。
それでも彼女は幾たびか躊躇した。そのうち二月も過ぎて、娘のお春の節句が來た。小幡の家でも雛を飾つた。緋桃白桃の影をおぼろに揺《ゆる》がせる雛段の夜の灯を、お道は悲しく見つめた。來年も再來年も無事に雛祭が出來るであらうか。娘はいつまでも無事であらうか。呪はれた母と娘とは何方《どちら》が先に禍《わざはひ》を受けるのであらうか。そんな恐れと悲しみとが彼女の胸一ぱいに擴がつて、あはれなる母は今年の白酒に酔へなかつた。
小幡の家では五日の日に雛をかたづけた。今更ではないが雛の別れは寂しかつた。その日の午《ひる》すぎにお道が貸本屋から借りた草雙紙を讀んでゐると、お春は母の膝に取附きながらその※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28] 繪を無心に覗いてゐた。草雙紙は、かの薄墨草紙で、酷《むご》い主人の手討に逢つて、杜若《かきつばた》の咲く古池に沈められたお文といふ腰元の魂が、奥方のまへに形をあらはしてその恨みを訴へるといふところで、その幽靈がもの凄く描いてあつた。稚いお春もこれには餘ほど脅《おびや》かされたらしく、その繪を指して「これ、何。」と、怖々《こはごは》訊いた。
「それは文といふ女のお化けです。お前もおとなしくしないと、庭のお池からかういふ怖《こは》いお化けが出ますよ。」
嚇《おど》す積《つも》りでもなかつたが、お道は何心なく斯う云つて聞かせると、それがお春の神經を強く刺戟したらしく、ひきつけたやうに眞蒼になつて母の膝にひしと獅噛《しが》み付いてしまつた。
その晩にお春はおそはれたやうに叫んだ。
「ふみが來た!」
明くる晩もまた叫んだ。
「ふみが來た!」
飛んだことをしたと後悔して、お道は早々に彼の草雙紙を返してしまつた。お春は三晩つゞいて
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