しく濕《ぬ》れてゐた。幽靈の顔や形は女小兒を悸《おび》えさせるほどに物凄く描いてあつた。
をぢさんはぎよつ[#「ぎよつ」に傍点]とした。その幽靈のもの凄いのに驚くよりも、それが自分の頭のなかに描いてゐるおふみの幽靈にそつくりであるのに脅《おびや》かされた。その草雙紙を受取つてみると、外題《げだい》は新編うす墨草紙、爲永瓢長作と記してあつた。
「あなた、借りていらつしやい。面白い作ですぜ。」と、半七は例の眼で意味ありげに知らせた。をぢさんは二冊の草雙紙を懐中に入れてこゝを出た。
「わたしもその草雙紙を讀んだことがあります。きのふあなたに幽靈のお話をうかゞつた時に、ふいとそれを思ひ出したんですよ。」と、往來へ出てから半七が云つた。
「して見ると、この草雙紙の繪を見て、怖い怖いと思つたもんだから、たうたうそれを夢に見るやうになつたのかも知れない。」
「いゝえ、まだそればかりぢやありますまい。まあ、これから下谷へ行つて御覽なさい。」
半七は先に立つて歩いた。二人は安藤坂をのぼつて、本郷から下谷の池の端へ出た。けふは朝から些《ち》つとも風のない日で、暮春の空は碧い玉を磨いたやうに晴れかゞやいてゐた。
火の見櫓の上には鳶が眠つたやうに止まつてゐた。少し汗ばんでゐる馬を急がせてゆく、遠乘りらしい若侍の陣笠の庇《ひさし》にも、もう夏らしい日がきらきらと光つてゐた。
小幡が菩提所の淨圓寺は可《か》なりに大きい寺であつた。門を這入《はい》ると、山吹が一ぱいに咲いてゐるのが目についた。ふたりは住職に逢つた。
住職は四十前後で、色の白い、髯《ひげ》のあとの青い人であつた。客の一人は侍、一人は御用聞きといふので、住職も疎略には扱はなかつた。
こゝへ來る途中で、二人は十分に打ち合わせをしてあるので、をぢさんは先づ口を切つて、小幡の屋敷には此頃怪しいことがあると云つた。奥さんの枕もとに女の幽靈が出ると話した。さうして、その幽靈を退散させるために何か加持祈祷《かぢきたう》のすべはあるまいかと相談した。
住職は默つて聽いてゐた。
「して、それは殿様奥様のお頼みでござりまするか。又、あなた方の御相談でござりまするか。」と、住職は珠數《じゆず》を爪繰《つまぐ》りながら不安らしく訊いた。
「それは何れでもよろしい。兎《と》に角《かく》御承知下さるか、どうでせう。」
をぢさんと半七とは鋭い瞳《ひとみ》のひかりを住職に投げ付けると、彼は蒼くなつて少しく顫《ふる》へた。
「修行《しゆぎやう》の淺い我々でござれば、果して奇特《きどく》の有る無しはお受合ひ申されぬが、兎も角も一心を凝らして得脱《とくだつ》の祈祷をつかまつると致しませう。」
「なにぶんお願ひ申す。」
やがて時分|時《どき》だといふので、念の入つた精進料理が出た。酒も出た。住職は一杯も飮まなかつたが、二人は鱈腹に飮んで食つた。歸る時に住職は、「御駕籠でも申付けるのでござるが……。」と、云つて、紙につゝんだものを半七にそつと渡したが、彼は突戻して出て來た。
「旦那、もうこれで宜しうございませう。和尚め、顫《ふる》へてゐたやうですから。」と、半七は笑つてゐた。住職の顔色の變つたのも、自分たちに鄭重な馳走をしたのも、無言のうちに彼の降伏を十分に證明してゐた。それでもをぢさんは未《ま》だよく腑に落ちないことがあつた。
「それにしても小さい兒が何うして、ふみが來たなんて云ふんだらう。判らないね。」
「それはわたくしにも判りませんよ。」と、半七は矢張《やはり》笑つてゐた。「子供が自然にそんなことを云ふ氣遣ひはないから、いづれ誰かゞ教へたんでせうよ。唯、念のために申して置きますが、あの坊主は惡い奴で……延命院の二の舞で、これまでにも惡い噂が度々あつたんですよ。それですから、あなたとわたくしとが押掛けて行けば、こつちで何にも云はなくつても先方は脛《すね》に疵《きず》で顫《ふる》へあがるんです。かうして釘をさして置けば、もう詰らないことはしないでせう。わたくしのお役はこれで濟みました。これから先はあなたの御考へ次第で、小幡の殿様へは宜しきやうにお話しなすつて下さいまし。では、これで御免を蒙ります。」
二人は池の端で別れた。
四
をぢさんは歸途《かへり》に本郷の友達の家《うち》に寄ると、友達は自分の識つてゐる踊の師匠の大浚《おほさら》ひが柳橋のあるところに開かれて、これから義理に顔出しをしなければならないから、貴公も一緒に附合へと云つた。をぢさんも幾らかの目録を持つて一緒に行つた。綺麗な娘子供の大勢あつまつてゐる中で、燈火《あかり》のつく頃までわいわい騒いで、をぢさんは好い心持に酔つて歸つた。そんな譯で其日は小幡の屋敷へ探索の結果を報告にゆくことが出來なかった。
あくる日小幡をたづねて、主
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