あつた。長男は無論その家を嗣《つ》ぐべく生れたのであるが、次男三男に生れたものは、自分に特殊の才能があつて新規御召出しの特典を享《う》けるか、あるひは他家の養子にゆくか、この二つの場合を除いては、殆ど世に出る見込みもないのであつた。彼等《かれら》の多くは兄の屋敷の厄介になつて、大小を横へた一人前の男がなんの仕事もなしに日を暮してゐるといふ、一面から見れば頗る呑氣らしい、また一面から見れば、頗る悲惨な境遇に置かれてゐた。
かういふ餘儀ない事情は彼等を驅つて放縦懶惰《ほうじゆうらんだ》の高等遊民たらしめるより他はなかつた。かれらの多くは道樂者であつた。退屈|凌《しの》ぎに何か事あれかしと待構へてゐる徒《やから》であつた。Kのをぢさんも不運に生れた一人で、こんな相談相手に選ばれるには屈竟《くつきやう》の人間であつた。をぢさんは無論喜んで引受けた。
そこで、をぢさんは考へた。昔話の綱《つな》や金時《きんとき》のやうに、頼光《らいこう》の枕もとに物々しく宿直《とのゐ》を仕つるのはもう時代おくれである。先づ第一にそのおふみと云ふ女の素性を洗つて、その女とこの屋敷との間にどんな絲が繋がつてゐるかといふことを探り出さなければいけないと思ひ付いた。
「御當家の縁者、又は召使などの中に、おふみといふ女の心當りはござるまいか。」
この問に對して、小幡は一向に心當りがないと答へた。縁者には無論ない。召使はたびたび出代りをしてゐるから一々に記憶してゐないが、近い頃にそんな名前の女を抱へたことはないと云つた。更にだんだん調べてみると、小幡の屋敷では昔から二人の女を使つてゐる。その一人は知行所の村から奉公に出て來るのが例で、ほかの一人は江戸の請宿《うけやど》から隨意に雇つてゐることが判つた。請宿は音羽《おとわ》の堺屋といふのが代々の出入りであつた。
お道の話から考へると、幽靈はどうしても武家奉公の女らしく思はれるので、Kのをぢさんは遠い知行所を後廻しにして、先づ手近の堺屋から詮索に取りかゝらうと決心した。小幡が知らない遠い先代の頃に、おふみといふ女が奉公してゐたことが無いとも限らないと思つたからであつた。
「では、何分よろしく、併《しか》しくれぐれも隱密にな。」と、小幡は云つた。
「承知しました。」
二人は約束して別れた。それは三月の末の晴れた日で、小幡の屋敷の八重櫻にも青い葉がもう目立つてゐた。
三
Kのをぢさんは音羽の堺屋へ出向いて、女の奉公人の出入帳を調べた。代々の出入先であるから、堺屋から小幡の屋敷へ入れた奉公人の名前はことごとく帳面に記《しる》されてある筈であつた。
小幡の云つた通り、最近の帳面にはおふみといふ名を見出すことが出來なかつた。三年、五年、十年とだんだんに遡つて調べたが、おふゆ、おふく、おふさ、總べてふ[#「ふ」に傍点]の字の付く女の名は一つも見えなかつた。
「それでは知行所の方から來た女かな。」
さうは思ひながらも、をぢさんはまだ強情《がうじやう》に古い帳面を片端から繰つてみた。堺屋は今から三十年前の火事に古い帳面を燒いてしまつて、その以前の分は一冊も殘つてゐない。店にあらん限りの古い帳面を調べても三十年前が行止まりであつた。をぢさんは行止りに突きあたるまで調べ盡さうといふ息込みで、煤《すす》けた紙に殘つてゐる薄墨の筆のあとを根《こん》好く辿つて行つた。
帳面は勿論小幡家のために特に作つてあるわけではない。堺屋出入りの諸屋敷の分は一切あつめて横綴《よことぢ》の厚い一冊に書き止めてあるのであるから、小幡といふ名を一々拾ひ出して行くだけでも其面倒は容易でなかつた。殊に長い年代に亙つてゐるのであるから筆跡も同一ではない。折釘のやうな男文字のなかに絲屑のやうな女文字もまじつてゐる。殆ど假名ばかりで小兒《こども》が書いたやうな所もある。その折釘や絲屑の混雜を丁寧に見わけてゆく中《うち》には、こつちの頭も眼も眩《くら》みさうになつて來た。
をぢさんもそろそろ飽きて來た。面白づくで飛んだことを引受けたといふ後悔の念も萌《きざ》して來た。
「これは江戸川の若旦那。なにをお調べになるんでございます。」
笑ひながら店先へ腰を掛けたのは四十二三の痩せぎすの男で、縞の着物に縞の羽織を着て、だれの眼にも生地《きぢ》の堅氣《かたぎ》とみえる町人風であつた。色のあさ黒い、鼻の高い、藝人か何ぞのやうに表情に富んだ眼を有つてゐるのが、彼の細長い顔の著しい特徴であつた。かれは神田の半七といふ岡つ引で、その妹は神田の明神下で常盤津の師匠をしてゐる。Kのをぢさんは時々その師匠のところへ遊びにゆくので、兄の半七とも自然懇意になつた。
半七は岡つ引の仲間でも幅利きであつた。併《しか》しこんな稼業のものにはめづらしい正直な淡白《さつぱ
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