た。
「何分《なにぶん》お願ひ申す。」と、松村も同意した。小幡は先づ用人《ようにん》の五左衞門を呼び出して調べた。かれは今年四十一歳で譜代の家來であつた。
「先《せん》殿様の御代《おだい》から、曾《かつ》て左様な噂を承はつたことはござりませぬ。父からも何の話も聞き及びませぬ。」
 彼は即座に云ひ切つた。それから若黨《わかたう》や中間《ちゆうげん》どもを調べたが、かれらは新參の渡り者で、勿論なんにも知らなかつた。次に女中共も調べられたが、彼等は初めてそんな話を聞かされて唯|顫《ふる》へ上るばかりであつた。詮議はすべて不得要領に終つた。
「そんなら池を浚《さら》つてみろ。」と、小幡は命令した。お道の枕邊にあらはれる女が濡れてゐるといふのを手がかりに、或は池の底に何かの祕密が沈んでゐるのではないかと考へられたからであつた。小幡の屋敷には百坪ほどの古池があつた。
 あくる日は大勢の人足をあつめて、その古池の掻掘《かいぼり》をはじめた。小幡も松村も立會つて監視してゐたが、鮒や鯉のほかには何の獲物もなかつた。泥の底からは女の髪一筋も見付からなかつた。女の執念の殘つてゐさうな櫛や笄《かんざし》のたぐひも拾ひ出されなかつた。小幡の發議で更に屋敷内の井戸を浚《さら》はせたが、深い井戸の底からは赤い泥鰌《どぜう》が一匹浮び出て大勢を珍しがらせただけで、これも骨折損に終つた。
 詮議の蔓はもう切れた。
 今度は松村の發議で、忌《いや》がるお道を無理にこの屋敷へ呼び戻して、お春と一緒にいつもの部屋に寢かすことにした。松村と小幡とは次の間に隱れて夜の更けるのを待つてゐた。
 その晩は月の陰《くも》つた暖かい夜であつた。神經の興奮し切つてゐるお道は迚も安らかに眠られさうもなかつたが、なんにも知らない幼い娘はやがてすやすやと寢ついたかと思ふと、忽ち針で眼球《めだま》でも突かれたやうにけたゝましい悲鳴をあげた。さうして「ふみが來た、ふみが來た。」と、低い聲で唸つた。「そら、來た。」
 待構へてゐた二人の侍は押取刀で矢庭《やには》に襖《ふすま》をあけた。閉め込んだ部屋のなかには春の夜の生あたゝかい空氣が重く沈んで、陰つたやうな行燈の灯は瞬《またた》きもせずに母子《おやこ》の枕もとを見つめてゐた。外からは風さへ流れ込んだ氣配が見えなかつた。お道は我子を犇《ひし》と抱きしめて、枕に顔を押付けてゐた。
 現在にこの生きた證據を見せつけられて、松村も小幡も顔を見合せた。それにしても自分達の眼にも見えない闖入者《ちんにゆうしや》の名を、幼いお春がどうして知つてゐるのであらう。それが第一の疑問であつた。小幡はお春を賺《すか》して色々に問ひ糺《ただ》したが、年弱《としよは》の三つでは碌々に口もまはらないので些《ち》つとも要領を得なかつた。濡れた女はお春の小さい魂に乗|憑《うつ》つて、自分の隱れたる名を人に告げるのではないかとも思はれた。刀を持つてゐた二人もなんだか薄氣味が惡くなつて來た。
 用人の五左衞門も心配して、あくる日は市ヶ谷で有名な賣卜者《うらなひしや》をたづねた。賣卜者は屋敷の西にある大きい椿の根を掘つてみろと教へた。とりあへずその椿を掘り倒してみたが、その結果はいたづらに賣卜者の信用を墜《おと》すにすぎなかつた。
 夜はとても眠れないと云ふので、お道は晝間寢床にはひることにした。おふみも流石に晝は襲つて來なかつた。これで少しはほつとしたものの武家の妻が遊女かなんぞのやうに、夜は起きてゐて晝は寢る、かうした變則の生活状態をつゞけてゆくのは甚だ迷惑でもあり、且《かつ》は不便でもあつた。なんとかして永久にこの幽靈を追ひ攘《はら》つてしまふのでなければ、小幡一家の平和を保つことは覺束《おぼつか》ないやうに思はれた。併しこんなことが世間に洩れては家の外聞にもかゝはると云ふので、松村も勿論祕密を守つてゐた。小幡も家來どもの口を封じて置いた。それでも誰かの口から洩れたとみえて怪しからぬ噂がこの屋敷に出入りする人々の耳に囁《ささや》かれた。
「小幡の屋敷に幽靈が出る。女の幽靈が出るさうだ。」
 蔭では尾鰭《おひれ》をつけて色々の噂をするものの、武士と武士との交際では流石に面と向つて幽靈の詮議をする者もなかつたが、その中に唯一人、頗《すこぶ》る無遠慮な男があつた。それが即ち小幡の近所に住んでゐたKのをぢさんで、をぢさんは旗本の次男であつた。その噂を聽くと、すぐに小幡の屋敷に押掛けて行つて、事の實否《じつぴ》を確めた。
 をぢさんとは平生《へいぜい》から特に懇意にしてゐるので、小幡も隱さず祕密を洩らした。さうして、なんとかしてこの幽靈の眞相を探り究める工夫はあるまいかと相談した。旗本に限らず、御家人に限らず、江戸の侍の次三男などと言ふものは、概して無役《むやく》の閑人《ひまじん》で
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