現在にこの生きた證據を見せつけられて、松村も小幡も顔を見合せた。それにしても自分達の眼にも見えない闖入者《ちんにゆうしや》の名を、幼いお春がどうして知つてゐるのであらう。それが第一の疑問であつた。小幡はお春を賺《すか》して色々に問ひ糺《ただ》したが、年弱《としよは》の三つでは碌々に口もまはらないので些《ち》つとも要領を得なかつた。濡れた女はお春の小さい魂に乗|憑《うつ》つて、自分の隱れたる名を人に告げるのではないかとも思はれた。刀を持つてゐた二人もなんだか薄氣味が惡くなつて來た。
 用人の五左衞門も心配して、あくる日は市ヶ谷で有名な賣卜者《うらなひしや》をたづねた。賣卜者は屋敷の西にある大きい椿の根を掘つてみろと教へた。とりあへずその椿を掘り倒してみたが、その結果はいたづらに賣卜者の信用を墜《おと》すにすぎなかつた。
 夜はとても眠れないと云ふので、お道は晝間寢床にはひることにした。おふみも流石に晝は襲つて來なかつた。これで少しはほつとしたものの武家の妻が遊女かなんぞのやうに、夜は起きてゐて晝は寢る、かうした變則の生活状態をつゞけてゆくのは甚だ迷惑でもあり、且《かつ》は不便でもあつた。なんとかして永久にこの幽靈を追ひ攘《はら》つてしまふのでなければ、小幡一家の平和を保つことは覺束《おぼつか》ないやうに思はれた。併しこんなことが世間に洩れては家の外聞にもかゝはると云ふので、松村も勿論祕密を守つてゐた。小幡も家來どもの口を封じて置いた。それでも誰かの口から洩れたとみえて怪しからぬ噂がこの屋敷に出入りする人々の耳に囁《ささや》かれた。
「小幡の屋敷に幽靈が出る。女の幽靈が出るさうだ。」
 蔭では尾鰭《おひれ》をつけて色々の噂をするものの、武士と武士との交際では流石に面と向つて幽靈の詮議をする者もなかつたが、その中に唯一人、頗《すこぶ》る無遠慮な男があつた。それが即ち小幡の近所に住んでゐたKのをぢさんで、をぢさんは旗本の次男であつた。その噂を聽くと、すぐに小幡の屋敷に押掛けて行つて、事の實否《じつぴ》を確めた。
 をぢさんとは平生《へいぜい》から特に懇意にしてゐるので、小幡も隱さず祕密を洩らした。さうして、なんとかしてこの幽靈の眞相を探り究める工夫はあるまいかと相談した。旗本に限らず、御家人に限らず、江戸の侍の次三男などと言ふものは、概して無役《むやく》の閑人《ひまじん》で
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